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第六百十四話 泳ぎ上手になれない [脳内譚]

 温水プールに顔をつけると不思議な感じだ。これは銭湯ではないとわかって

いるのに、なんだか町外れの健康ランドの大浴場に浸かっているような安らぎ

を感じる。ぬるま湯に浸かっている感じとはまさにこういうことをいうのだろう。

平日はプールの中にいる人間も少なく、その僅かなスイマーから出された声や

水しぶきの音が室内プールの壁に反射して一種独特の雰囲気が出来上がって

いる。

 水野澄子は最近ダレてきている身体をなんとかしなくちゃと思ってこのスポー

ツクラブに週一で通いはじめたのだが、フィットネスとかヨガとかいうものよりも、

全身運動である水泳が身体にいいと聞くし、何より楽そうだからプールに入るよ

うになってまだ三回めだ。時間帯によってはインストラクターに指導してもらうこ

ともできるので、この際ちゃんとした泳ぎをマスターしようと思っていた。

 「水野さん、息継ぎがちゃんとできるようになれば、もっと泳げますよ」

 インストラクターに言われるまでもなく、そうだと思っているのだが、どうしても

呼吸ができない。子供の頃はもう少しちゃんと泳いでいたように思う。平泳ぎか

犬かきで、顔を水面に上げたままで五十メートルは泳げていたよな気がする。

ところがいまは、体力の問題もあるうのかもしれないが、十メートルおきに水底

に足をついて立ち上がってしまう。顔を上げて游げないし、そうなると息が苦し

のだ。手で水をかくときに反動で頭を上げればいいのだとわかっているがで

きない。だから顔を水に浸けたままで水をかいて前に進み、息が切れると立ち

上がる。どういうわけか息を止めるのは得意な方だが、水の中では恐怖心も

手伝って、二十秒も息が続かない。

「大丈夫ですよ、そのうち水に慣れてきたら、息継ぎも自然にできるようになり

ますから。人間は泳げるようにできているんですよ」

 インストラクターはそう言って励ましてくれるが、どうもそのような気がしない。

私は泳ぐのが下手なのだ。澄子はそう思いながらもう一度水中に顔を付けて

足で水底を蹴った。

 泳ぐのが下手。本当にそのとおり。プールの中で泳ぐことはもちろん、この世

の中を泳ぐことがいちばん苦手。よくぞみんな上手に世の中を泳ぎ回っている

とか。だけど、息を止めるのだけは得意なんだけどなぁ。それでは世の中は

おろか、プールの中も泳ぎいれないなぁ。

 プールで泳ぐのはいつも金曜日の就業後。週末をゆっくり過ごして日曜日の

夜になると、どっと疲れが訪れる。疲れがというのは正確ではない。精神的な

疲れ、明日からまた会社だという憂鬱感が訪れるのだ。学校を出てからもう十

数年間、生活のために、お給料のために会社に通ってはいるが、年を重ねる

度に会社に勤めるということが重荷になっていく。働くのがいやなわけじゃない。

何とは言えないが、会社というものが嫌いなのだ。他の会社ならそうでもない

のかもしれないが、それは経験がないからわからない。たぶん、会社を変わっ

ても同じなのだろうなと思う。会社組織の大きな歯車の中で、何かよくわからな

い業務を行うことに不毛さを感じるのだ。農作物を育てるとか、漁をして魚を捕

るとか、そういう仕事ならわかりやすくていいのに、澄子は昔からそんな風に考

える人間なんだ。

 月曜の朝。よく眠ったのにもかかわらず、目の下に隈ができているような顔を

鏡の中に見ながら澄子は思う。ああ、また一週間、私は息を止めて会社で過ご

す。息を止めていると、余計なことは考えないで済むし、それなりに過ごすこと

ができる。週末のプールに行くまで、息を止めて過ごすんだ。玄関先で数回、

呼吸をした後、澄子はバッグを肩にかけて廊下へと踏み出した。

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第四百四十七話 神様お願い。 [脳内譚]

 「神様、お願い。助けてください。」

あなたはこんなことを天に向かってお願いしたことはないだろうか?私はこれ

までのまだ短い人生の中で、何度も天に向かって手を合わせた。学校のテス

トに失敗してひどい点数が付けられたテスト用紙を家に持って帰らねばならな

かった時。パパの雷が落ちないようにと願った。幼なじみでもある親友とひど

い喧嘩をしてしまった時。一週間も過ぎてからだけど、仲直り出来ますように

と祈った。その後も、受験の日、初デートの日、元旦のお年玉の時、大学で

知り合った彼と別れそうになった時。サークルでコンテストに出たとき・・・。

私は既にいっぱいいっぱい神様にお願いしてきた。もし、一生のうちで神様

お願い出来る件数が限られているとすれば、私はもう全部使い果たしてし

まったかも知れない。神様が聞いてくれてたとしたらのことだけど。

 だけど、今まで神様に何度もお願いして、その願いがすぐに叶った事なん

一度だってない。あの時パパにはこっぴどくお説教されたし、幼なじみとは、あ

れ以来没交渉になってしまったし、デートは惨めだったし、失恋したし、受験に

は失敗したし、コンテストは最悪だったし・・・。結局、いくら神様にお願いしたと

ころで、あの人はちっとも聞いてくれやしない。いつだって自分の力でなんとか

して切り抜けなければならないのだ。

 もし、この世に神様が入るとしたら、どうして世の中にはあんなに悲惨な事件

とか事故が繰り返し起きるのだろう?どうして国同士の、民族同士の争いが絶

えないのだろう。どうして人々は大災害で死ななければならないのだろう。きっ

と事故や事件に巻き込まれた人はみんな、「神様助けて!」そう天に向かって

願ったはずだ。だけど、聞き入れてもらえなかった。この世に神はいらっしゃる

のだろうか?そう思いながら死んでいったに違いない。

 神様は、こうしたことをいったいどう考えているのだろうか。もし、私が神様な

らば、持てる能力をすべて使って、争いを止め、事故や事件を防ぐだろう。災

だって、神の力ならなんとか食い止めることが出来るはずだ。なのにそうは

してくれないというのは、神様の怠慢なのではないだろうか?罰が当たりそう

な意見だけど世界の平穏無事を願っての意見なんだから仕方がない。私、

間違っているのかしら?

 こんなことを考えながら、マンションのベランダで午後の春の風を楽しんで

いたら、空からぼんやりと光るものがやってきた。神様?いや、そうではなさ

そうだが、でも神様みたいなおじいちゃんだ。

 「あのぉ・・・神様・・・じゃないですよね?」

「ほぉ、わしが見えるか?左用、わしは神ではない。じゃが、神の伝言を持っ

て参った。そなたは、神が願いを叶えてくれんと嘆いておるそうじゃな。違う

か?」

「・・・え、ええ・・・私に罰を当てるのですか?」

「むおっほっほ・・・そうではない。そなた、今までにどのくらい神に願いを送

った?数知れずじゃろうな。だがな、いったいこの地上にはどのくらいの人

間が暮らしていると思うとる?・・・考えたこともないじゃろうな。昨年度調べ

ではな、70億を超える人間が暮らしておるのじゃ。して、神は何人じゃ?

そうじゃ、神は一人っきりしかおらん。一人の人間が願い事を伝えるのに

30秒かかったとしよう。では70億の人間が願い事をいうのにどのくらい

の時間がかかるかな?35億分じゃな。35億分とは何時間かな?そう、

5833万3333時間じゃ。これを24時間で割るとじゃな、ウォッホン、な

んと2430555日、ということはじゃな6659年もかかるわけじゃな。」

「・・・・・・つまり?」

「つまりじゃな、そなたんお願いを聞き入れるのは、6559年に一回

しかチャンスがないということじゃ。」

「六千五百・・・?そ、そんなぁ。」

「そうじゃろ。神様一人で70億の人間の望みを叶えられんのはな、そういう

わけなんじゃ。じゃから、やっと順番が回ってきた時には、その人間は墓の

中に入ってもう数百年も経っていたというような・・・。」

「ふぁわぁ・・・なるほど、そういうわけだったのね・・・でも神様だったら一度

に何人もの声を聞き入れることが・・・。」

「無理じゃ。いくら神といえども、耳はひと組しかないのじゃ。神通力をもっ

てしても、せいぜい数人の話を聞くのが関の山・・・。」

「それじゃぁ、私の小さな願いなんて聞いてもらえるはずはないわね。でも、

じゃぁいったい誰の願いを聞いてるのかしら?」

「そんなもの世界を見たら幸運な人間の話はたくさん聞いたことがあるじゃ

ろ?その幸運な人間が、ようやく神が手を回せた人々なのじゃよ。」

「そっかぁ・・・。じゃぁあ、私の願いなんて・・・。」

「それがじゃな、そなたの順番がまもなく回ってくるのじゃ。わしはな、それを

伝えに来たのじゃ。6559年に一度聞き入れてもらえる、そなたの願いは、

さてなんじゃな?」

「え。何?今?言わなきゃならないの?」

「今すぐというわけではないが、まもなくじゃから、今のうちに考えておい

たほうがええのではないかな?さぁ、そなたの願いは、なんじゃ?」

「あの、その、きゅ、急に言われても・・・そんな・・・。」

「特にないということなら、パスにするが、ええかの?」

「ぱ、ぱす?!そ、そんな!でも、今すぐ困ったことがあるわけでもないし・・・。

私、どうしたら、どうしたらいいの?」

「では、パスかの?」

「いや、待って!じゃぁ、世界平和を!」

 一瞬、世界は平和になった。そして、それから世界の人々は、自らの手で世

界を平和にするべく努力を続けた。あるものは静かな手段で。あるものは武力

を行使してまで。

                                     了


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第四百三十五話 顔。 [脳内譚]

 バイクで走っていて軽い交通事故に遭ったのがきっかけだった。こちらはい

つもの幹線路を法定速度で走っていた。すると横道からいきなりセダンが飛び

出してきたのだ。私は慌ててブレーキをかけたが、安モノのバイクだからか、と

ても安定が悪く、後輪が滑ってドラフト状態になった。そのまま横倒しに倒れ、

バイクは倒れたままセダンに突っ込んだ。セダンの横っ腹には丁度私のヘルメ

ットと同じ半球型の凹みが出来た。田舎道の事で、それほどスピードを出してい

なかったことが幸いしてたいした怪我ではなかったけれども、ヘルメットの透明

カバー部分が割れて私のアゴを裂いた。すぐに救急車がやって来て病院へ搬

送、応急処置を施してくれたが、五センチ程度の傷跡が残った。

 「とりあえず、応急的に縫ったのですが、傷跡が残ります。これは後日、ウチ

の形成外科で再手術すればほとんど分からなくなります。」

そう言われてしばらくは傷の治癒のために通院した。ひと月ほど経って、傷は

十分に癒えたのだが、ケロイド状に盛り上がった皮膚に縫い目が残った。せっ

かく治ったのに・・・とは思えたのだが、やはり女性にとって顔の傷は、と考え

治して形成外科の扉を開けた。

「ああ、結構大きいですね。でも、大丈夫。再手術すればほとんど分からなくな

りますよ。」

そう言う形成外科医の言葉を信じて再手術を受けた。手術は、元の傷跡に沿っ

てきれいに表面を取り除き、裂けた服を修繕するように、注意深く切れ目を縫い

合わせていくという簡単なものだ。その手術後に、毎日細手の絆創膏を貼り、傷

跡よ消えろと念じながらメンテナンスを続けた。ひと月後。

「ああ、大分きれいになりましたね。これでもう大丈夫ですね。もうしばらく絆創膏

を続けてくださいね。」

医師はそう言う。確かに応急処置の時の傷跡に比べれば随分きれいになった。

だが、やはり傷は傷。私の口の下、左側にはまだなお五センチくらいの線が一本

入っていた。

「後はねぇ、日にち薬っていうんだけれども、年月が経てば分からなくなりますよ。」

医師はそう言うが、半年過ぎても一年過ぎてもアゴの線はホウレイ線のようにくっ

きりと描かれていた。

 交通事故では、人より自転車、自転車よりバイク、バイクより車の分が悪くなる。

つまり、事故保険の配分は、バイクと車の場合、ほとんど車側が責任をとる形に

なる。ましてや私の事故は、こちらが幹線道路で、しかも車は左右確認を怠って

の飛び出し。突っ込んだのは私のバイクだったが、全面的に向こうが悪いという

ことになった。医療費は保険で賄われるだけでなく、この場合、私は先方に慰謝

料を要求することが出来た。先方が悪いとはいえ、出来事はタイミングのせいだ

とも言えるのだから、向こうも災難と言えば災難だ。とりわけ顔の傷は慰謝料が

高い。しかも男性より女性、中高年より若年、既婚より未婚の被害者の慰謝料

額が高くなる。もし私が男性だったなら顔に5センチの傷が出来ても三百万くら

いしか請求出来ないが、未婚女性ということになるとこれが千万ちょっとになる

のだ。私は示談の結果千万円の慰謝料を手にした。

 この千万がなければ、私は留まったことだろう。だが、美容整形の費用が手元

にあるのだ。このシワのような傷が消せるものなら消したい!そう願うのは間違

っているだろうか?私は美容整形外科の扉を叩いた。

 美容整形で傷を消す方法はいくつかある。レーザーで焼く、皮膚を削る、移植

する。私の傷はやや深めだったので腿のところの皮膚を移植することになった。

その説明を聞きながら私は思った。どうせなら、両頬に残る痘痕も消せないかし

ら?もちろんそれは可能だった。一度に全部行うことは出来ないが、少しづつ治

していこう、美容整形外科医はそう言った。

 数カ月後、私の顔の傷は泣くなり、痘痕もすべて消えた。若い頃のようにつる

つるの顔になった。美容整形を受けると癖になる人がいるというが、私にはその

気持ちが分かった。ここまで美しくなれるのなら、もっと美しくなりたい。それに一

部分が美しくなったら、別の醜い部分が目立ち始める。鏡を覗き込みながら、私

は顔中をチェックした。そして再び美容整形外科の門をくぐった。

 三カ月後、私の輪郭は一回り縮み、大きかった鼻はスリムになり、アゴのライン

も、目頭の位置も、何もかもが理想的なデザインに変わった。

 顔が変わっても、その下にある中身までは変わらないだろうと思っていた。だが、

顔のデザインが変わると何もかもが変わってくる。華麗なドレスに身を包むと、誰

もがレディになるように、新しい顔は私の内面を大きく変えた。もうバイクには二

度と乗らないし、カジュアル過ぎる服も着ない。まるでハリウッド女優のような気

分で服を選び、インテリアを買いなおした。今まで働いてきた会社も辞め、モデ

ルか、受付か、何か今の自分にふさわしい仕事を探すことにした。友達もそうだ。

今まで友達だった彼女たちはもう私にはふさわしくない。もっとおしゃれで洗練さ

れた美しいん人間こそが私の友達だ。そうだ、家族も探さなければ。あの田舎の

古臭い家に住む年寄りは私には似合わない。新しい両親を探さねば。もっとゴー

ジャスでセレブな雰囲気を持ったお金持ちの両親を。

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第四百三十四話 岩爺。 [脳内譚]

 若いころは何でも出来ると思っていた。何にでもなれると思っていた。つま

り夢と希望に満ちていたのだ。だが、入試で挫折し、入社で挫折し、昇進で

挫折し、四十歳を過ぎた頃にはすっかり疲弊したただのオヤジに変わって

しまった、それが松本五郎という男だ。

 五郎には何人かの相談相手というか酒飲み友達がいるのだが、その中

でも最も相談し甲斐があるのが岩本の親父通商岩さんだ。五郎よりもふ

たまわりも歳上なのだが、それだけに含蓄のある答えを持っている。

「あのなぁ、五郎ちゃん。お前さんは何をして幸せだと思っとるんだ。もしや

嫁が自分の言うことを聞いてくれたらなぁとか、会社が自分を認めてくれん

とか、神様は何をしとるんだとか、そんな風に思うとるんじゃないかな?」

「え、まぁまぁ、神様はどうかわかりやせんけどね、カミ様はもうちと俺の言い

なりになってもいいんじゃないかとは思いますねぇ。」

「やはりな。そうじゃろそうじゃろ。人間はな、どういうわけか、周りが自分の思

う通りになるんじゃないかと思う。嫁さんが自分が願うとおりにしてくれると思う。

世間が自分の思うとおりに動いてくれるかもしれんと思うとるんじゃな。そこに

大きな挫折のタネがあるんじゃな。なぁ、そんなもん、叶うわけがない。おまい

さんは、奥さんが思うとおりにしてやっとるか?おまいさんは上役の思う通りに

働いとるか?だぁれもそんなことはしとらんと思うな。人間はな、自分が思う通

りにいかなんだ時に不幸だと思う。そうじゃないかな?」

「はぁ、なるほど。そうかもわからんねぇ。そうかそうか。俺がもっと給料くれって

願ってもそうはならん。ならんから幸せになれんと思う。不幸だと思う。なるほど。」

「だろ?だったら、最初からそんなこと願わんかったらええ。無理なこと、無駄なこ

とを願うから不幸になるんじゃ。人は人。周りは周り。おまいさんはおまいさん。お

まいさんが自分で出来る事だけをやって、他人をコントロールしようなんて思わぬ

ことじゃ。人をコントロールしようと思うと反対にコントロールされてしまう。その挙句

まったく思ってもみなかった結果を招いて不幸に感じるのじゃな。」

「なるほど。じゃぁ岩さんはそういう風にしてるのかな?」

「ま、そうじゃな。わしは何も望まん。自分が出来ることだけを自分でやる。

その成果を誰かに認めてもらおうなんて金輪際思わん。」

「じゃぁ、もし、逆に相手が岩さんをどうかしよう、何かさせようなんて近寄

ってきたら・・・どうすんです?」

「たとえば、怖い兄さんがワシのとこにやって来て、クヌ野郎!土下座せ

んかいとか言ってきたら・・・ワシは素直に土下座するな。」

「ほぉ。それでええの?理不尽じゃない?」

「なぁんも。そんなもの簡単なことじゃろ。そいつの言うことを捻じ曲げる方

が遥かにしんどいわ。ワシが土下座すればいいんじゃ。」

「はぁ・・・そんなもんですかね。そりゃあまるで・・・無抵抗・・・。」

「そう、無抵抗という抵抗じゃ。心の中でウホホと思いながらそうすりゃええ。

右の頬を叩かれたら左の頬も出したらんかい。な、それが当たり前だと思

えばどうってことない。逆に相手がワシを鍛えてくれとるくらいに思うたら、

すっごく得した気分になるわな。」

「岩さんは偉いな。まるで聖人みたいだな。神様仏様岩様だな・・・。」

「うんうん、最近はな、岩爺と呼ばれとるで。岩爺…ガンジイ・・・。分かるな?」

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第四百三十一話 傷物。 [脳内譚]

 「うーん、ウチは客商売なんでねぇ…。あなたの経歴は問題ないんですが、

やはりその傷はねぇ…。」

やはりだめか。これでもう何件目なんだろう。京極連司は戻された履歴書を懐

に入れながらため息をついた。前の会社をリストラされてから、もうすぐ半年

になろうとしている。そろそろ職を見つけなければと、焦れば焦るほどうまく

いかないのが人間の常だ。連司は普通に大学を出て、小さな町工場で働いてい

たが、昨今の不景気で受注が激減し、社長に頼まれて僅かな退職金を手に離職

したのだ。社長にはたいへんよくしてもらっていたので、恨みも怒りもなかっ

た。むしろ会社を辞める事で恩返しが出来るのならと喜んで受けたのだ。幸い

まだ若い連司には扶養家族もいないので、他の社員を辞めさせるよりは、自分

がリストラされた方がみんなにとってもいい事なのだと自分を言い聞かせた。

 それに長らく工場で黙々と働いて来た連司にとって、これも生活を変えるい

い機会のようにも思えた。もともと人なつこい性格の連司は、工場に籠って働

くよりは、人前で何かをする仕事の方が性に合ってると思っていた。そろそろ

接客業のような仕事をしてみたいと思っていたのだ。それで工場を辞めてから

は嬉々として新たな職場探しにいそしんで来たのだが、どうもうまくいかない。

 実は連司の額には大きな傷があった。おとなしい性格の連司なのに何故?酔

って喧嘩でもしたのか、交通事故にでも逢ったのか。友人からはそう言って冷

やかされるのだが、実際には工場の事故でついた傷だった。工場の同僚が動か

していた機会が突然故障して歯車が引っかかった。連司が隣の機械から発する

ギギィ〜という鈍い音に気がついた時には既に歯車が外れ、大きな鉄パイプが

外れて同僚に向かって突進していた。連司は同僚を突き飛ばして危険を避けよ

うとしたのだが、鉄パイプは連司の額をかすって床に転がり落ちた。擦っただ

けなので、頭蓋骨に損傷は受けなかったが、額には大きな傷がついてしまった。

肉まで裂けた額からはさほど出血はしなかったものの、応急処置をした医師の

腕に問題があったのか、傷口が大きすぎたのか、無惨な傷跡が残る事になって

しまったのだ。形成手術で傷跡は治ると言われて、二度目の手術も受けたのだ

が、一回の形成術くらいでは傷痕はとれなかったのだ。時間薬で徐々に傷跡は

薄くなる、女性じゃなくてよかったよ、医師からはそう言われて、納得してい

たのだが、それが今頃になって職探しのネックになるとは考えもしなかった。

 企業側も風貌で差別をするつもりもないのだろうが、接客業にとって顔の傷

が瑕疵になると言われると、確かにその通りかもしれないなと思ってしまう連

司だった。もう、連司は接客するという職種はむりなのだろうか。やはり前の

ような黙々と籠って行うような仕事を続けろという事なのか。心機一転を願っ

ていた連司は落胆し、もうどうでもいいやと思うようになった。

 ある日駅で買った新聞を読んでいると、小さな突き出し広告に映画のエキス

トラ募集という求人広告を見つけた。特に役者になりたかったわけではないが、

お金さえもらえればこの際なんでもいいやと思っていた矢先、応募してみるこ

とにしたのだ。数日後映画製作会社から連絡をもらった連司はオーディション

に出かけた。

 「今回はスパイ活劇です。エキストラを求めていたのですが、あなたのその

風貌…その、傷が気になりましてね。失礼ですが、それは何か事故で…?」

オーディション室で連司の前に並ぶ制作スタッフの真ん中に座っていた若い男

がそう尋ねた。この男が監督である事はあとから知ったのだが、連司の割合に

きれいなルックスについた大きな傷跡が、思いのほか印象的だったらしい。あ

り得ない話だと言われそうだが、こうして演技など学んだ事もない連司は、そ

んなものはどうにでもなると言われて、活劇の敵役という大きな仕事に抜擢さ

れたのだった。

 人前に出て誰かに喜んでもらえる仕事がしてみたい、そんな連司の願いがこ

んな形で実現するとは。 額に傷持つ男・”傷男”の異名を掲げて銀幕の世界に

静かにデビューした連司がこの先大ブレイクしていくかどうか、それはまだ

わからない。だが、傷物というのも捨てたものではないな、連司はようやく

そう思えるようになったのだ。

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第四百二十話 段差イン・ザ・ダークネス。 [脳内譚]

 「はい、ツタタン、ツタタン、ツタンタタタン!ああー違う!違うなぁ!」

山際庸子は、ジャズダンスのインストラクターだ。以前はプロのダンサーを

目指しつつ、ニューヨークから来日した黒人ダンサーの教室でアシスタント

をしていたが、ある時、右足の腱を痛めてプロになるのを諦めた。そして自

分のダンス教室を始めてもう十年になる。

 「もう、何度言ったら出来るのよ。あなた、もう十年もダンスやってるのに、

まだそんな簡単なステップが踏めないの?」

庸子の指導はかなり厳しい。アマチュア相手の教室とは思えないほど手厳

しい言葉が投げられる。もともとプロ志向だっただけに、アマチュアといえど

も、拙い動きが許せないのだ。

 ダンスは肉体的な技巧と表現する感性の両方が求められる。いくら器用

に踊れても表現力がなければ伝わらないし、豊かな表現力を持っていても

自在に動かせる肉体がなければ表現できない。だからプロへの道は遠い

のだ。庸子は両方の素養を十二分に持っていたはずなのだが、腱を痛め

たのが致命的だった。いや、それなりにプロは目指せたのだろうが、そん

な中途半端な生き方は許せなかったのだ。自分にも厳しいぶんだけ、人に

も厳しい。だが庸子自身は、プロであれアマチュアであれ、ダンサーが究極

を求めるのは当たり前の事だと思っている。だって、人に見せる芸術なんだ

から。美には中庸なんてないのだから。

 庸子から罵詈雑言を受けているのはこの教室では古株になる西村真理だ。

最初はこの教室にも五〇人近くの生徒が集まっていたのだが、庸子の厳しさ

についていけないのか、あるいはダンスを楽しむ姿勢が違っていたのか、一

人減り、二人減り、気がつけば今やたった六人の教室になっていた。真理は

思う。なんでみんな辞めていったんだろう。確かに庸子先生は厳しいけれど、

私はそれでも楽しいと思うから十年もやってこれた。でも、最近は私への風

当たりはきついなぁ。みんなこういう個人攻撃を受けて嫌になったんだろう

か?

 「あなたはね、みんなと違って基礎が出来てないのよ。あの子たちはほら、

小さい頃からクラシックやってたから、身体が柔らかいし、リズム感も抜群。

なのにあなたときたら、もうちょっとやる気出してもらわないと困るわ。発表

ライブまでもう2カ月もないのよ。」

 困ると言われても、こっちだって困る。私は目いっぱいぎりぎりまでやる気

出してやってるのに、どうしてそれが分からないのかしら?

 もともとプロダンサーを目指していた山際庸子にとって、ダンスにアマもプ

ロもないのだ。ステージで人に見せる限り、自分の美意識に叶うものでなけ

れば受け入れられない。だから本当は自分よりも技術が劣る生徒たちのダ

ンスはどれ一つ満足には至らないのだが、その中でも最も年長で動きの鈍

い西村真理子のダンスに目が言ってしまうのだ。この子がいるから、他のメ

ンバーも足を引っ張られている。実際にはそんなことではないのだが、勝手

にそう思い込んでいる。だから彼女にばかりきつく当たるのだ。

 山際庸子はダンスを教える傍ら、実はボイスレッスンに行っている。ダンス

という時間芸術をやっている以上、いつかは総合的な舞台を演じてみたいと

思うからだ。つまり、ミュージカルだ。ミュージカルという限りは、歌も歌えなけ

ればならない。庸子は抜群のリズム感を持っており、それがダンスにも活か

されているのだが、どういうわけか音痴なのだ。自分ではそこそこ上手に歌

えてると思っている。だが、皆の前でカラオケで歌うと、たいてい失笑されて

しまう。十年ほど前にそのことに気がついて、ボイスレッスンを受けるように

なった。

 「♪ムラーラァアー~ンア~!」

「山際さん、何その発声は?いつも言ってる通りに、どうして出来ないの?あ

なた、もう十年もここに来てるのでしょう?いつになったら分かるのよ!」

ボイスレッスンの先生は元プロ歌手だった三浦鈴子だ。厳しい事で有名だが、

厳しい分だけたくさんのプロ歌手を世に送り出している。庸子は自分が歌唱

力を手に入れるには申し分のないコーチだと思っている。だが、いつまでた

っても上達出来ないでいるのだ。

「あなたはね、信じられないほど音感がないのよ。あれほどリズム感には優

れているのに、どうしてなの?不思議だわ。もう少し真面目に取り組んでみ

らどうなの?」

 そんなこと言われたって、私は精いっぱい真面目にやってきたのに。この音

感だけは持って生まれたものなのかしら?私にはわからないわ。どこがどう違

うって言うのよ!毎回毎回、同じ指摘ばかり。もう聞き飽きたって言いたいくら

い。先生には音痴の気持ちが分からないのだわ!

 悔しい思いでいっぱいになりながらスタジオを後にする庸子は、この悔しさを

自分のダンス教室で晴らしてやる、今日もまたそう考えるのだった。

                               了

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第四百十八話 泣きごとを言わないお尻。 [脳内譚]

 久しぶりに松ちゃんのエステサロンを尋ねた時のことだ。松ちゃんは、も

十数年も前にこのエステサロンを開設した。最初は顔を中心とした普通

ステティックだったのだが、オープン後一年ほどして、リンパマッサージコー

スを付けくわえた。

 体の中には運動不足やストレスなどのさまざまな要因で老廃物や毒素が

溜まってくる。すると、肩こりになったり冷え性になったり、肥満の原因にな

ったりするわけだ。そこでこうした老廃物や毒素をリンパ節をマッサージす

ることによってリンパ液にのせて体外に排泄するというものだ。今でこそリ

ンパマッサージをやるサロンは増えたが、当時はまだ少なかった。リンパ

効果がまだあまり知られていなかったからだ。

 人の身体の中にリンパ節はたくさんあるのだが、主なモノは、後頭部や

耳下腺、鎖骨のところ、脇の下、太ももの付根のところなど。よく、風邪をひ

いたりした時に、喉の奥が腫れたり、脇の下のところがプックリ腫れて「リン

パが腫れてる」とかいう、あれだ。体調を崩すと、リンパ液がドロドロになっ

て、このリンパ腺のところに悪いものが溜まる。そこで、リンパのところを手

でゴリゴリとマッサージして流してやるのだ。上手なエステシャンの手にか

かると、見事にリンパ節の疲労が取れて、何だか身体がすっきりする。そ

れまで痛んでいた肩こりが嘘のように消える。

 松ちゃんがサロンを始めた頃、私はよく通っていて、そこで松ちゃんと親

しくさせてもらった。しかし、1年半ほどして仕事の関係で別の町に引っ越

してしまったので、私は松ちゃんのサロンには行けなくなったのだ。新しい

町にも同じようなエステサロンはあったのだが、どの店も満足できなかっ

た。それほど松ちゃんのリンパマッサージは効いていたのだ。だが、長い

こと松ちゃんのマッサージを受けていたお陰だと思うが、なんだか体質が

改善されたようで、エステサロンに行かなくても自分自身の手でリンパを

マッサージしているだけでも効果があるようで、私はあれほど悩んでいた

肩こりも冷え性もほとんどなくなってしまったようだ。

 あの日、たまたま出張で懐かしい町に行くことになった。仕事を終えてか

ら少し時間が空くことが分かっていたので、久しぶりに松ちゃんのところに

行こうと思って電話で予約をした。

 「あらぁ!久しぶり!どうしてたのよ。ああ、ぜひぜひいっらっしゃって!」

喜んでくれる松ちゃんの店にいそいそと出かけていき、実に10年ぶりに

松ちゃんのゴッドハンドによるマッサージを受けた。

「とてもいいみたいね。」

私の身体を触りながら松ちゃんが言う。

「へー、触って分かるんだ。」

「もち、それがプロよ。」

「あれからね、移り住んだ町でも松ちゃんみたいなエステの店を探したんだ

けど、ないのよねー。でもね、なんだかエステのお世話になるようなことも

なくって・・・。」

ひとしきり近況報告的な世間話が終わった頃、松ちゃんがふっと言った。

「それにしても、あなた、泣きごとを言わないお尻になったわねぇ。」

え?何?お尻がどうしたって?

「あのね、ウチに来ていただいてた頃はね、あなたのお尻はいつも辛い~

しんどい~って泣きごとばっかり言ってたのよ。」

「ええー何ぃ、それ?」

「そうねー自分自身では見えないものね、自分のお尻なんて。」

「そりゃぁ、鏡で見えないことはないけれども、確かにあまり見ないわね。」

「うふふ。あなたのお尻がエンエン泣いてたから、私、リンパマッサージし

ながらいつもお尻の泣きごとも取って上げてたのよ。リンパを流すのと同じ

ように、お尻の泣きごとを流して上げる事も、実はマル秘のテクニックなの。」

「へー!そんなことしてたんだぁ!」

「うふふ、調子よかったでしょ?あの頃。仕事で泣いたことなかったんじゃな

い?」

「う・・・うんうん、確かに。確かにそうだわ。それは松ちゃんのお陰だったの

ね?」

「うふふ、私はお手伝いしただけ。あなた自身が頑張ったのよ。だからほら、

今はすっかりいいお尻になって・・・泣きごとを言わないお尻になって、私が

何もしなくても、立派にやってるんじゃないの?」

「そうだねー。でも、やっぱり松ちゃんのお陰だわ。松ちゃんが私のお尻を、

お尻の体質を変えてくれたんだわ。」

「うふふ。」

 泣きごとを言わないお尻だなんて、初めて聞いたけど、本当はまだよくわ

からないけど、まぁ、とにかく悪くないってことね。え?でかっ尻になったっ

てこと?まぁ、私もすっかり中年のおばさんなんだからそう言われても仕方

がないわね。でかっ尻でもなんでも、泣きごとを言わないんだから、それは

とってもいいことなんじゃないの?

 私は大きめになったお尻を大きく振りながら、松ちゃんの店を後にした。

                                了


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第四百十六話 歌の夢-第一節・甦る記憶。 [脳内譚]

 「ムアー、マー、マー、マー、マー・・・」

いつも最初は、ロングトーンから始める。発声練習だ。たやすいようで、これ

が案外難しい。声の立ち上がりからしっかりと発声し、太いパイプのように安

定した声を八秒ほど続ける。そして半音上の次の音、次の音・・・という具合

に。慣れないうちは、声が揺れるし、途中で途切れたりもする。そうならない

ために腹式呼吸で腹から声を出す。腹からと言っても、本当に腹から声が

出るわけではないが、横隔膜で支えるようにして発声しないと、声が安定し

ないのだ。その上、いわゆる”喉で発声”していると、無理が生じて喉を傷め

たりもする。腹で声を出すための空気を支えて、それこそパイプ状の楽器の

ように、喉を広げてフワーッと空気を外に出す。その際に声帯を振わせると

声が出るわけだ。イメージとしては、腹の底から出た空気に乗せた声を、ま

っすぐに太いまま口から吐き出す感じ。

 発声の原理はそれだけではない。声を出すときの口腔内の大きさによっ

て声は変わってしまう。口腔を大きく広げて、舌が発声の邪魔にならないよ

うに下げて、さらに鼻腔からも空気を漏らすことによって、響きを生み出さな

ければならない。この、鼻腔を響かせるために発声練習の際には「ムアー」

というMの子音を使うのだ。口腔と鼻腔を使って響かせた声は、3メートル

ほど先の壁に当てるイメージで口から繰り出す。これでやっと”いい声”が

生まれるわけだが、横隔膜も、喉も、声帯も、口腔も鼻腔も、すべて肉体

であるから、人によって音声が変わるわけだ。ここに個性が生まれる。

 もともと理想的な肉体をもった人間なら、何の努力もなしにいい声を出

せるだろう。ここにはやはり天性のものが影響すると言わざるを得ない。

たとえばトロンボーンの肉体を持った人間にフルートの音は出せないの

だ。トロンボーンの肉体を持っているのなら、その人固有の低音を響か

せればいいのだが、ただのプラスチックパイプの肉体しか持たない人間、

つまり楽器として機能しないような肉体を持った人間には、歌うことは無

理と言うことになる。

 栗原美里は小さい頃から歌が大好きだった。当時まだモノクロだった

テレビの番組に歌手が出てくると、テレビにかぶりついて見ていた。や

がてその歌を覚えると、歌手と一緒に身ぶりも真似て歌った。そうやっ

て覚えた歌を両親に見せては「上手だねえ」と褒めてもらうのが大好き

だった。ところが神様は皮肉なことをする。背も高く大きく成長した美里

の思春期に待っていたものは、声変わりだった。美里は女の子なのに、

そういうわけか、声変わりした。いや、男性に限らず、女性だってある程

度声変わりはあるものなのだが、美里の場合は予想以上に低くしゃが

れた声しか出せなくなってしまったのだ。何かホルモン異常が起きてい

たのかも知れない。

 声が低くなって、それまでのように人気歌手の歌を歌いにくくなってし

まっても、歌や音楽が好きなことには変わりはない。だが、思い通りに

歌えない事を悟った美里は歌手になる夢を諦めた。その代わりに、高

校でも大学でも合唱部に入って歌い続けたのだ。しかし、ちゃんと声を

出せないというのは歌い手にとって致命的なのは当然で、美里はいつ

も一番低いパートの、しかも補欠扱いでしか参加させてもらえなかった。

 不具合な楽器としての声しか持たない美里は、それでも音感やリズム

感には自信があった。それらは、小さい頃から歌ってきた美里が、知ら

ず知らずのうちに身につけたものだ。音楽性が高いだけに、それを表現

する楽器を持たない事は、美里にとって一層辛いものだったはずだ。大

学の合唱部は、コンサートやコンクール、学祭や交流会と忙しく、勉学に

励むというよりは、部活をしているうちに、あっという間に四年間が過ぎた。

 学校を出てからは、知らず音楽や歌からは遠ざかり、気がつけば美里

も中年どころか初老の域に達している。結婚もし、子供も育て、仕事も続

けて、一通り人並の人生を過して来た。今、定年間際になって、今さらな

がらに自分の半生を振り返る。人間とは面白いことに、一年前の事は忘

れてしまっても、若いころに記憶の中に刻み込まれた事はずっと覚えて

いる。とりわけ情操部分に刻まれた音楽は、美里という一個の人間の

基盤となっているのだ。しばらく音楽からは遠ざかっていたとしても、歌

が好きで音楽が大好きで、本当は歌に生涯をささげたいくらいだったと

いう思いは、昨日の事のように甦ってくるのだ。

 どうして私は歌の道を選ばなかったんだろう。あんなに歌うことが好き

だったのに。ああ、そうだ、この声のせいだ。あの思春期にこんな声に

なってしまったからだ。ああ、神様、私は恨みます。私に歌わせたくない

のなら、音楽という選択肢を与えないで欲しかった。

 もう何十年も前に自分を受け入れて、諦めてしまったはずの事なのに、

私はどうしてまたこんな事を思い出してしまったんだろう。また、あの若い

日の苦い思い出を繰り返さなければならないのだろうか?そう思う美里

だった。

                                     了


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第四百十四話 勘違いの男。 [脳内譚]

 社会というものは、実にさまざまな人間で成り立っている。そして、社会の

中のごく僅かな人間が集まって、会社という小さな組織を構成している。そ

のごく僅かな人間でさえ、一人ひとり違う個性を持っているから、一致団結

なんてそうそうには出来るわけがない。なのに、事あるごとに「一致団結し

て!」などと叫んでいる人々が私にはわからない。

 こんなことを語っている私はごく普通の人間で、実に温和に暮らしている。

自分で言うのもなんだが、若いころから老成してしまっていて、嫌な人間な

ど滅多にいないし、腹を立てたことなんて、人生の中で数えるほどだ。何が

起きても、たいていは「ああ、そんなもんだ。」と簡単に受け入れて許してし

まう。それがいいことなのか、よくないことなのか、それは私にはわからない。

 だが、温厚だと言いながらも、実は仕事場に一人だけ気に食わない奴が

いる。かつては部下だった男だが、そいつはまだ若造の癖に自分が優秀

だと勘違いしている類の奴だ。思いあがっているから、上司や同僚から指

摘されるとすぐに逆上して起こり出すし、その割に結構な落ち度を残すよ

うな仕事をする。グループで行った業績も、まるで自分のお陰のように思

って満足している。少し病的な、というか自閉症的な性格を持っており、

周囲には彼を疎んじる人間は結構いる。

 私が彼と仕事をしていた時、私は例によってなんでも受け入れてしま

うから、評判の悪い男でも、他面を見ればいいとこともあるだろうと考え

て静かに見守っていた。ところが、その私の見守りを放置と勘違いし、

また私が築いて与えた仕事を自分一人で獲得したように考えていた彼

は、ある日私に噛みついた。

「あれもこれも僕に任せっきりで、何にもしてくれないのは何でですか!」

その言葉を黙って聞いたが、同時になんて頭の悪い奴なんだろうと思っ

た。なぜなら、私は決して放置はしていなかったから。そんな事もわから

ないような人間には、それ以上何を言っても仕方がない。私は彼を受け

止めているつもりだっただけに、非常にがっかりした。

 だが、その一件で彼は仕事から外れてもらい、今は一切の関わりを断

っている。私自身の精神衛生上のためだ。私は温厚な人間なのだが、そ

の若造は今なお同じ事務所にいるわけだから、いつか殴り倒してやりた

いと思っている。

 実は、もう一人気に入らない人間がいる。私はほとんど嫌いな人間等

いないのだが、これだけは例外だ。その男はほぼ同じ年代で、かつては

一緒のチームで働いた事もあるのだが、傍若無人で、気に入らない外部

の人間に「殺してやるぞ」という脅し文句を言うような輩だ。もはやこの話

だけで沢山だ。まるで自分一人が選ばれた人間のように勘違いをしてお

り、周囲の人間に挨拶ひとつしないから、これもまた評判が悪い。こちら

が頭を下げても知らん顔をするような人間だ。その癖、上司やお得意先

には要領がいいらしく、そこでは悪い評価ではないという。このわけのわ

からない人物の顔を私は出来れば見たくもないが、同じ職場にいるので

毎日気分が悪くなるのだ。私は温厚な人間だが、こいつだけはいつか蹴

飛ばしてやりたいと思っている。

 普通は、もうこれ以上嫌な人間などいないのが私の筈なんだが、実は

もう一人いる。もしかしてこの会社は何かおかしいのではないだろうか。

その男は顔付きからして嫌味だ。いつもニヤニヤして下品な口ひげをへ

ろへろ動かす。他人の様子を斜めから見て、あることないこと噂話をして

回る。これは昔からの彼の癖で。人の噂を他の人間に話すことで自己実

現をしているのだ。私自身も彼に広められた噂はひとつや二つではなく、

それはまるっきり嘘ではないにしろ、真実からは程遠い。真実ではない

事でも、誰かれなく広められてしまうと、その噂話はいつしか真実のよう

な顔をして一人歩きしてしまう。お陰で私は会社の中にいくつもの障壁

を抱えてしまった。いつかこの男を殴り倒してやりたいと思っている。

 私は実に温厚な人間だから、上司の命令にも従順なのだが、最近に

なって私を追い越して上司の席に座ってしまったあいつの命令は受け

たくない。五歳も年下の人間が私を飛び越して出世するからには、そ

れなりの理由があるべきだ。だが、彼にはそうしたものを感じない。

確かに真面目で努力家なのは分かるが、飛びぬけて優秀な業績を

残しているわけでも、人望が厚いわけでもなく、何故この男が抜擢さ

れ他のか分からない。抜擢という言葉も違う。人事上の消去法によ

って、薬にもならないが毒にもならないであろうという自由で、または

上司の加護によってそうなっただけだ。五年後の人事なら分かるが、

何故今なのか、私にはわからない。上部が年功序列ではないサプ

ライズ人事をしたかっただけのように見える。私はこの男を殴りたい

とは思わないが、落とし穴に落ちればいいと願っている。

 私は嫌いな人間など一人もいない・・・筈なのだが、こうして改めて

考えてみると、あの白髪の男も、あのニヤけた男も、こっちの禿げた

男も、あの派手な女も、この髭だらけの奴も、その若造も、どいつも

こいつもボコボコにしてやりたい。だがそれは今じゃない。いつかチ

ャンスがあればだ。だって私は温厚で、物分かりがよく、誰にだって

優しい人間なのだから。

                             了

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第四百十三話 未来への脱出。 [脳内譚]

 私はもう長い間、ここに閉じ込められている。それが五年なのか十年なのか、

あるいは五十年も閉じ込められてきたのか、いまではもうほとんど分からなく

なってしまった。

 最初の頃は、何とか抜けだそうといろいろ試していた。いや、そんな気がする。

個人の力では抗えない不可思議な未知なる力によって、どんどん今の居場所

へと追いやられて行き、ついには今の場所から動けなくなってしまったのだ。不

可思議な力とは・・・神の意思なのか、あるいは運命というものなのか、私には

応えることが出来ないが、とにかく自分一人の力では逆らう事が出来ない力だ。

だが私は逆らおうとした。自分の運命など、自らの力で何とでもなる、そう信じて

上層部に働きかけたり、別の組織に粉を撒いてみたり、この世界のメディアから

入手した情報を信じて、今までと違うやり方に挑戦してみたり。しかし、それはま

るで蟻地獄の穴から抜け出そうとしている微力な蟻のようにもがくばかりで、結

局何ものも売ることが出来ないまま、今の場所にい続けているのだ。

 他のみんなは今の場所に満足しているのだろうか?いったいどれほどの人間

がここにい続けることを喜んで享受しているのだろうか?違う。そうではない。多

くの人々は、この世のほとんどの人間は、自分が置かれている状況に疑問さえ

持っていないというのが真実だろう。

 飼育箱の中で飼われている蟻は、外の世界を知らない。ガラスで密閉された

自分がいる場所だけが全世界だと思っている。だがもし、飼育箱の外に、もっ

と大きな広い世界が広がっていることを知ったなら・・・蟻はそれでも飼育箱の

中に甘んじているのだろうか。

 生きていけるだけの水や食糧があり、生きていくことと少しの楽しみだけに生

涯を費やせればいいと考えている蟻は、それでもそこにい続けるだろう。だが、

それ以上の何か・・・例えば自由という名の見えない何かや、未来と呼ばれる

不確かな何かを求める者だけが、敢えて外の世界への脱出を求めるのだ。

 私はその敢えて外の世界を求める少数派なのだろう。もう何年も前にチャレ

ンジしては挫折するというシークエンスを繰り返し続けてきた。だが、いつしか

チャレンジ精神は諦めへと変わり、逆にこうしてここに入れるのはいつまでな

のだろうと考えるようになっていた。安穏と暮らしていると、老けるのも早い。

いつの間にか私の頭には白いものが混じり、皮膚には深い皺が刻みつけら

れているのを発見して、私の挑戦心は再びむくむくと起き上った。

 忘れていた冒険心を取り戻したかのように、俄かに脱出活動を始めたのだ

が・・・やはり俄か仕込みではいけない。若い頃のように身体も動かないし、頭

も働かない。ただ長年にわたって身体が覚えてきたスキルと知恵を頼りに、新

たな脱出を試みたのだが・・・やはり、結果は出せなかった。

 政府が密かに公募している秘密諜報部員に応募してみたのだが、あえなく書

類選考で落とされてしまったというわけだ。今をもって終身雇用をベースにして

いるこの国の雇用制度に逆らっての、今の組織からの脱出、そして現在の生

活スタイルからの脱出は、またしても失敗した。自分に残された情熱というエ

ネルギーの残存量を知っている私にとって、もはやこの環境からの脱出は、

断念せざるを得ないのかも知れない。

                                了

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