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第六百十四話 泳ぎ上手になれない [脳内譚]

 温水プールに顔をつけると不思議な感じだ。これは銭湯ではないとわかって

いるのに、なんだか町外れの健康ランドの大浴場に浸かっているような安らぎ

を感じる。ぬるま湯に浸かっている感じとはまさにこういうことをいうのだろう。

平日はプールの中にいる人間も少なく、その僅かなスイマーから出された声や

水しぶきの音が室内プールの壁に反射して一種独特の雰囲気が出来上がって

いる。

 水野澄子は最近ダレてきている身体をなんとかしなくちゃと思ってこのスポー

ツクラブに週一で通いはじめたのだが、フィットネスとかヨガとかいうものよりも、

全身運動である水泳が身体にいいと聞くし、何より楽そうだからプールに入るよ

うになってまだ三回めだ。時間帯によってはインストラクターに指導してもらうこ

ともできるので、この際ちゃんとした泳ぎをマスターしようと思っていた。

 「水野さん、息継ぎがちゃんとできるようになれば、もっと泳げますよ」

 インストラクターに言われるまでもなく、そうだと思っているのだが、どうしても

呼吸ができない。子供の頃はもう少しちゃんと泳いでいたように思う。平泳ぎか

犬かきで、顔を水面に上げたままで五十メートルは泳げていたよな気がする。

ところがいまは、体力の問題もあるうのかもしれないが、十メートルおきに水底

に足をついて立ち上がってしまう。顔を上げて游げないし、そうなると息が苦し

のだ。手で水をかくときに反動で頭を上げればいいのだとわかっているがで

きない。だから顔を水に浸けたままで水をかいて前に進み、息が切れると立ち

上がる。どういうわけか息を止めるのは得意な方だが、水の中では恐怖心も

手伝って、二十秒も息が続かない。

「大丈夫ですよ、そのうち水に慣れてきたら、息継ぎも自然にできるようになり

ますから。人間は泳げるようにできているんですよ」

 インストラクターはそう言って励ましてくれるが、どうもそのような気がしない。

私は泳ぐのが下手なのだ。澄子はそう思いながらもう一度水中に顔を付けて

足で水底を蹴った。

 泳ぐのが下手。本当にそのとおり。プールの中で泳ぐことはもちろん、この世

の中を泳ぐことがいちばん苦手。よくぞみんな上手に世の中を泳ぎ回っている

とか。だけど、息を止めるのだけは得意なんだけどなぁ。それでは世の中は

おろか、プールの中も泳ぎいれないなぁ。

 プールで泳ぐのはいつも金曜日の就業後。週末をゆっくり過ごして日曜日の

夜になると、どっと疲れが訪れる。疲れがというのは正確ではない。精神的な

疲れ、明日からまた会社だという憂鬱感が訪れるのだ。学校を出てからもう十

数年間、生活のために、お給料のために会社に通ってはいるが、年を重ねる

度に会社に勤めるということが重荷になっていく。働くのがいやなわけじゃない。

何とは言えないが、会社というものが嫌いなのだ。他の会社ならそうでもない

のかもしれないが、それは経験がないからわからない。たぶん、会社を変わっ

ても同じなのだろうなと思う。会社組織の大きな歯車の中で、何かよくわからな

い業務を行うことに不毛さを感じるのだ。農作物を育てるとか、漁をして魚を捕

るとか、そういう仕事ならわかりやすくていいのに、澄子は昔からそんな風に考

える人間なんだ。

 月曜の朝。よく眠ったのにもかかわらず、目の下に隈ができているような顔を

鏡の中に見ながら澄子は思う。ああ、また一週間、私は息を止めて会社で過ご

す。息を止めていると、余計なことは考えないで済むし、それなりに過ごすこと

ができる。週末のプールに行くまで、息を止めて過ごすんだ。玄関先で数回、

呼吸をした後、澄子はバッグを肩にかけて廊下へと踏み出した。

                              了



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