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第六百十一話 不治 [文学譚]

 何にだって終わりがある。始まりがあれば終わりがあり、出会いがあれば別

れがある。だが、始まりも終わりも、いつ来るのかがわからないところが人生で

あり、また恐ろしいことでもある。

 私は生まれてこの方、風邪もほとんど引いたことがなく、まして大きな病気も

怪我も経験がない。無病息災とはまさに自分のためにある言葉だと思って生

きてきた。病院はおろか、薬さえ飲んだことがない。そういったものに縁がない

まま過ごしてくることができたのだ。何故そうなのかと問われても、私には答え

る術がない。わからないのだ。たまたま丈夫に生まれついたということなのか、

正しい食生活を続けてきたからなのか、あるいは、四十歳になる今まで、規則

正しい生活をしてきたからなのか。このままでは百歳まで生きてしまいそうだと

いうほどの健康体というのも、嬉しいような、いささか残念なような気がするのだ。

 健康体であって残念というのは、顰蹙を買いそうな言い草だが、実際、たまに

は病気になってみたい、などというないものねだりな感情が生まれるのだ。子供

の頃に、ちょっと咳が出て病院に連れて行かれたときに、心のどこかで「わぁい、

風邪ひいたから、明日は学校お休み!」などと勝手に思っていたら、診察しても

らった医師に、ははぁん、これはスナック菓子の食べ過ぎで、喉がカサカサにな

っているからですねえ。なんともありませんよ、などと言われてなぁんだ病気じゃ

ないんだって、がっくりして帰ったこともあるのだが、大人になってもどこか病院

に憧れるというか、たまには病人になってみたいと思ったりするものなのだ。

 ところが、その健康体の私が、最近少し調子が悪いのだ。最近と言ったが、本

当のところは数年前から兆しはあった。身体がなんだかだるい。あんなに好きだ

ったカラオケや映画に行く気がしない。不況と共に暇になってしまった仕事にも

身が入らない。会社に行きたくない。一日中ぼぉーっとしている。だからといって

熱が出ているわけでも、咳が出るわけでも、どこかが痛かったり苦しかったりす

るわけでもない。ただ、なんだか心が苦しい。

 産業医に促されて心療内科に行ってみた。すると、さも不思議でもなんでもな

いという感じで、カウンセリングを受けてみなさいと医師に言われ、何度かその

通りにしてみたが、カウンセラーというものは、私がいうことをニコニコしながら

聞くばかりで、たまには相槌やツッコミを入れてくるものの、私にとってはなん

の救いにもならなかった。軽鬱症状。もしくは気分変調症。パソコンで調べて

勝手にそのような病名を考えてみたが、これは医師から言われたものではな

い。でもたぶん、そんなことなのだ。健康優良人間の私が、四十を過ぎて、よ

うやく病気めいたものを得ることができた。

 でも本当はそんな病気ではないことを、私は薄々知っている。小学生になっ

た時に思った。小学校に入って、勉強して、それが何になるのだと。中学時代

には高校受験や大学受験を見据えながら、この先二回も受験をして進学して、

社会に出て、それでどうなるというのかと。大人になるとはどういうことなのか?

そもそも自分は何のために生まれてきたのか、何故ここにいるのか? 自分は

この世の中で何か意味のある存在なのか? 後に、レゾン・デトールという哲学

の根底にある考え方を知り、実存という文学の根底に流れる思想を知るにあた

って、これこそが人間の謎なのだと知った。しかし、そんなものはいくら考えても

答えのあるものではなく、それ以上突っ込んで考えることなく、つまり私は哲学

にも文学にも走らずに、健康体のまま大人になったのだが・・・・・・。

 今、この年になって実存にはまってしまった。四十も過ぎると、もはや人生の

半ばを過ぎていると考えるべきだろう。四十年という歳月で、自分が成し遂げ

たこと、世の中に残した成果、自分が生きているという足跡を歴史に残せた

のかという思い。どれをとっても無であることを自覚したときに、私は実存とい

う病に罹った。私の脳の中に生来的に仕込まれた思想であり、また生を謳歌

するためには乗り越えなければならない実存という遺伝子病。これは不治の

病と言える。発症させることなく、一生を終えることのできる幸福な人間がほと

んどなのだが、中には若くして発症して自らの命を絶ってしまう者もいた。私の

ように中途半端な年齢で発症し、中途半端なまま闘病する者は、さほど多くは

ないだろう。しかも私の場合、身体だけは頑丈にできているというのは、一層

問題を困難にしている。つまり簡単に病気などで死なないからだ。いっそ結核

や癌で死んでしまえた方が楽なのかもしれないからだ。

 不治の病、実存。人類は、これを克服できる日が、いつかくるのだろうか。

                                了



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