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第四百五十四話 殺人小説。 [怪奇譚]

 怖い。この頃、なんとも言えずあの人のことが怖いのだ。あの人は小説家の

卵。だが、”小説家の卵”という言い方を、あの人はとても嫌がる。卵というから

には、ひよっ子にすら至っていないということだ。自分はもはや卵どころかひよ

子ですらない。今や若鶏くらいにはなっているはずだ、そう言って怒るのだ。

 あの人の名前は海堂俊介。私の恋人である。学生の頃から小説家を目指し、

遂に大学は中退してしまった。大学なぞ、大人の幼稚園みたいなものだ。通っ

ても小説家にとってなんの足しにもならない、そう言って親の反対をも押しのけ

て辞めてしまった。それからは昼間フリーターをしながら、夜は執筆するとい

生活を執念深くもう十年も続けている。とはいえ、気まぐれに働くフリーター

だけで大の大人が食べて行けるはずもなく、そこに絡んでしまったのが私と

いう訳だ。私は俊介と同じ大学に通ったが、ちゃんと卒業した。そして小さな

出版社で職を得今もそこで働いている。

 俊介とは大学の執筆倶楽部というサークルで知り合った。そのサークルは

一回生の時に立ち上げて、三年間リーダーを務めていた。私は俊介より

一学年下で、二回生になったばかりのある日、学食でPCを広げて詩を書いて

いた。その時偶然にもそのすぐ近くで俊介たちサークルのメンバーが、お互い

の作品について合評をしていたのだ。そして私は俊介に見つかってしまった。

「おおー、すごい。君はこれで文章を書いているのか?」

しばらく前から視線を感じるなと思っていたら、いつの間にか私のすぐ傍らに

やってきていた俊介がそう言った。私はPCに集中していたので、驚いてギャ

ッと妙な叫び声を上げてしまった。

「やぁ、ごめんごめん。驚かすつもりは無かったんだ。でも、君があまりに素

敵な”原稿用紙”を持っているようだから、つい見とれてしまって。」

その頃はまだ、Book型のPCなど持っている学生は少なく、私は父親が仕事

で使っていたお古を譲り受けて愛用していたのだ。私がPCで書いていたのは

詩とか散文。本当は可愛いノートなどに記すのが女子学生っぽくていいのだ

ろうけれど、私自身はPCで書くというスタイルが気に入っていた。そして俊介

もまた新しい執筆スタイルとしてPCやワープロに注目していたのだった。

 ともかく私たちはこんなありきたりな出会いをした。文学少女くずれの私と

その時すでに小説家気取りの若造と。およそこういうカップルはロクでもな

い。学生運動や人殺しこそしないものの、毎晩深夜まで安酒と煙草の脂で

どろどろになった居酒屋の空気を吸いながら文学について激論する若者

たちに、お嬢様育ちの私は否応なしに付き合わされた。そして気が付けば

彼は学校を中退し、私は彼が残したサークルのリーダーを背負わされた。

 働き始めた彼の生活には鬼気迫るものがあった。早朝から土方仕事に

出かけ、夜はドヤ街で飲む。そのあとアパートで明け方近くまで小説を書

く。よくもまぁ、そんな芸当ができたものだと思うが、若さと体力に、執念と

いう鬼が憑いていたからなのだろう。私は大学卒業を目前にした頃、彼の

健康が心配になり、食事の準備と掃除と洗濯のために彼のアパートを訪

るようになり、やがて一緒に住むようになった。

 私は彼と一緒に住むことによって、彼の労働を減らすことが出来ると考えた

のだ。そしてその通りになった。つまり、俊介はほとんど働かなくなり、執筆に

専念し始めた。それでいい、私は思った。私が彼を支えて、彼を小説家にする、

そう考えた。彼も私の犠牲をちゃんと理解してくれており、その代償にというわ

けではない筈だが、私を愛した。

 あれから約十年の間に、俊介は数十冊の本を書いた。だが、未だ一冊も世に

は出ていない。今のところ、どの出版社も褒めてはくれるものの、出版には至ら

ないのだ。理由は簡単だ。俊介が書く小説は商業的ではないからだ。情念と執

着と厭世観に満ちた俊介独特の世界。谷崎潤一郎のような、あるいは永井荷風

のような、どろりと爛れた物語。私は彼が描く世界観が嫌いじゃないのだが、今の

書籍マーケットは、そういうものを好まない。世間が好むのは、もっとドライで明

く軽いスマートな物語であり、そういうものが商業ラインに乗る。しかし、芸術とは

そういうものなのだ。マーケティングにかかるようなものではない。小説家が自分

自身の生き様を映してこそ、そして生き様の中での物語を紡ぎ、紡ぎ終わった屍

を見せてこそ出版価値が出る、それが芸術なのだ。

 この”芸術論”は俊介からの受け売りだが、彼はそれでもメゲずに書き続け

る。そして今、数十冊目の原稿を書き終えようとしているのだ。

 「殺人小説」。これが新作のタイトルらしい。彼は書き終えるまでは誰にも

原稿を見せない。私にすら。だが、私は彼がチェックのためにPCからプリン

トアウトした表紙偶然見たのだ。初のミステリーだろうか。最初はそう思っ

た。だが、俊介はそういうトリーッキーな事を考える頭を持っていない。きっと

ミステリーにカムフラージュされた文学小説だろうと思った。

「今度はどんな話を書いてるの?」

「それは・・・言えない。書き上げたら、見せる。」

これは、いつも通りの台詞。だが、今回はその後が少し違った。

「実はな、今までとは違うものに挑戦してるんだ。」

「殺人小説?」

思わず口に出しかけたが、喉元で止めた。私がタイトルを見たと知れば、必ず

ってタイトルを変えてしまうから。だが、俊介は自ら言った。

「殺人小説って言うんだ。」

「・・・さつ・・・じん・・・?」

「そうだ。世の中のあちこちで起きている惨劇。親が子を殺す。子が親を殺す。

金のために殺す。夢のために殺す。未来のために殺す。過去のために殺す。

そんな事件が後を絶たないだろう?何故人は人を殺すのか。人を殺すときの

人間の心は何を考えているのか。殺される時の人間の胸の内は?こういう事

にこそ、人間の真理があると思うんだ。」

 確かにその通りだ。だが、いくら作り話とはいえ、想像力だけでそのような

人間心理が書けるものか?俊介は今まで、モノを書くためにさまざまな取材

をし、実際の体験をし、そうした事を芯にして物語を書いてきた。だが、人殺

しの話なんて・・・経験できるはずもない。

 だが、私は思い出していた。三ヶ月前のこと。朝から雨の中を出かけていっ

た俊介は、深夜近くになって泥だらけになって帰ってきた。あの時、不思議に

思ったのは、ジャケットの下に来ていた筈の白いシャツがなくなっている事だ。

もしや、あの時、俊介は人知れず誰かを殺してきたのではあるまいか。ナイフ

で刺して殺したその返り血を浴びて、汚れたシャツを何処かで処分してきたの

ではあるまいか。

 彼から内容について聞かされた数日後、不安になった私は、彼が出かけてい

る間にこっそりPCを立ち上げた。今まで一度もそんなことをしたことがないから、

安心しきっている俊介は、ファイルにロックをかけていない。

 ”殺人小説”・・・あった。私はソフトを起動してまもなく書き終わろうとしている未

完の小説ファイルを開いた。

 「人は生きるために生まれて来るのか。それとも死ぬために生まれて来るの

?」そんな重苦しい書き出し。

「人の生死を決めるのは神でも運命でもない。結局人なのだ。その人とは、ほ

とんどの場合は自分自身だが、時折他人の手に委ねられてしまうことがある。

それが病院での死であり、殺人による死である。」

俊介に見つかってしまうのではないかとドギマギしながら読んでいる私は、尚

も続く生死にまつわる云々を読み飛ばし、中盤以降のページを開いた。

ページはあろうかと思われるその作品は、中盤にきてサスペンス風の内容に

変わっていた。

「死。その多くは突然だ。後ろに人の気配を感じた隆之介が振り向くまでもなく、

背中に出刃が突き刺さった。ずぶずぶずぶ。鮮魚を三枚におろすが如くの触感

が出刃の柄を握る俊蔵の手に広がる。ずぶずぶ。尚も肉の中を突き進んでいく

出刃の感触。その時初めて俊蔵は我に還った。何だ、俺は今何をしているのだ。

人を殺したのか?この人は俺の友達ではなかったのか?俺は・・・」

そこまで読んだ時に携帯が鳴った。俊介からのメールだ。

「ちょっと遅くなったが、今から帰る。」

私は心臓が止まるかと思った。まるで俊介に見透かされているのではと錯覚し

た。慌ててファイルを閉じ、PCの電源を落とした。俊介は、小説の中で人を殺し

た。そしてそれはいかにもリアルなタッチで描かれている。あたかも実際に体験

した殺人の様子を映し出すように。もしや、俊介は小説の為に人殺しを?いや

いや、俊介がそんなことをするはずがない。だけど・・・。

 十数冊も本を書いてきて、一冊も出版出来ていないという現実。そろそろ潮

かと吐いた弱音を、私が打ち消したのはいつだったっけ。それほど参ってい

る俊介が、最後の悪あがきでこんなテーマを取り上げたのかもしれない。そし

てショッキングな内容を書くために、そして死にまつわる真実を手にするため

に、心を悪魔に売らなかったと誰が言えるだろう?私の体は小刻みに震え始

めた。人殺し小説のために人を殺したかも知れない。俊介は人殺しをするよ

うな人間ではないが、芸術のためには魂を売るかもしれない人間だ。私は震

える手を収めるために、熱く風呂を沸かし、シャワーを浴びた。

 私がまだバスタブに浸かっているうちに、俊介は帰ってきた。いつもはその

ままPCのある部屋に行くはずなのに、今日は違った。俊介汚れた衣服を洗う

ためには洗面室の扉を開けた。

「何だ、こんな時間に風呂に入ってるのか?」

俊介はそう言ってバスルーム場の扉を開けた。そこに立っている俊介の姿。あ

の雨の日のように泥だらけでこそないが、シャツが真っ赤に染まっている。私は

筋を凍らせた。またなの?またそんな体験をしに行ってたの?バスタブの中

で真っ青になっている私の顔を見つめながら俊介が言った。

「なんだよ、妙な顔して。これ?これはな、あいつの血だ。今日、俺がやってき

事を説明しようか?」

俊介はそう言って血に染まった右手を差し出した。

「いやーっ!やめて!」

「・・・!びっくりするじゃないか!玲子、騒ぐんじゃない!ご近所が驚く。」

俊介が差し出した右手にあったのは、出刃でもナイフでもなく朱に染まった太

い絵筆。

「お話のラストをアーティストに描いてもらおうと思ってね。」

 俊介の話はこうだった。どうしても殺人の感触がわからないから、漁師に頼

んで釣り上げたばかりの魚に何度もナイフを突き刺してみたのがあの雨の日。

今回は、お話の大団円でアーティストを登場させるという。派手にペンキをこ

ぼすことによってイタリアンホラー映画のダリオ・アルジェントよろしく、血のイ

メージを美しいイメージにしたかったので、絵かきの友人に頼んで朱墨汁で遊

んできたという。なんて人騒がせな。こういうオチでいいのか、あなたの文学は?

そう言おうとした時、俊介の両手が私の喉に絡みついてきた。絡みついた掌は

私の喉を締め上げる代わりに、唇に触れ、頬を撫でた。

                          了



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