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第七百三十六話 影響力 [文学譚]

「大切なことは、ひとりひとりの心の中にあるはずなんです!」

 重吉は一言ひとことに力を込めて静かに語りだした。それまでなんだかんだ

と口々に喋っていたみんなは、重吉の声に一瞬ぎょっとしたが、それぞれが座

っている一から首を捻って声のする方向、重吉の姿に視線をやった。

「だいたい、みんな自分の立場ばかり考えているのではないのかな。わしらは

いまもっと大切なことを成し遂げる局面に立たされていると考えられんか?」

 重吉の言葉に頷く者はまだ一人もいない。ここに集まる者はみな、同じ考えを

持ち、地域の生活改善のために、ひいてはこの国をよりよくするために集まって

来ているのだから、前向きな意見が出れば大抵は大きく頷きだすのが常なのだ。

「わしも今までは自分のことしか考えられんかった。だが、あるとき目からウロコ

が落ちるように、冷静に世の中が見渡せるようになった。いまは政治も、行政も、

教育現場ですらくすんでおる。いや、汚れているではないか。そうしたことに、た

とえそれが見過ごされがちな小さなことであってもだ。わしらはきちんと見据えて

悪ければ悪いと、もっと大きな声を上げるべきなのではないのかな?」

 普通ならここで拍手のひとつが上がっても良いような名言ではないか。だが、人

々は怪訝な顔をしたまま重吉を眺めていた。中には困ったようなしかめっ面をして

いる者すらいる。重吉はあまりの熱弁に顔中が上気しはじめ、額からは小さな汗

粒がぶつぶつと浮かびはじめていた。もとより赤ら顔である重吉の顔は一層赤く

染まり、それが酔客のような面持ちをより一層濃くしていた。

「わしは、たとえひとりであっても正義のためになることを貫こうと思う。それに反

する者や事柄には、断固異論をぶつけていくことにする!」

 そう断言して重吉が口を閉じると、ようやく静まり返っていた会場の中には普段

のざわめきが戻ってきた。誰もが体勢を取り戻し、各々が向かっていた相手に向

き直り、今の数分間、何ごともなかったかのように、何も聞こえなかったかのよう

に、先程までの自分たちのおしゃべりに戻っていくのだった。

 重吉はこの町においては長老と同様に齢を重ねた老人であり、皆からの尊敬

を集めてもよさそうな年格好ではあるのだが、なにしろ町内ではどうしようもない

不良老人で、朝っぱらから酒に酔っているアル中気味の爺さんであるというレッ

テルが貼られているから、なぜこの集会にやってきたのか、いったい誰が爺さん

を呼んだのか、とんいかく迷惑であるから即刻帰って欲しい、などとすべての人

間に思われているのだ。たとえ今日は一滴も飲んでいないとしても、たとえ今日

は町の発展のために考え抜いた知恵を披露するためにやってきたのだとしても、

常日頃から培われた老人の立ち位置は俄かに変化するものではない。集会所

の人々にとって、重吉は空気のような存在、いやそれ以下の存在であり、重吉

が何を語ろうとも、それは酔っぱらいの戯言にしか聞こえないのだった。

 重吉が本来賢くて、いまは素面で、どんなに素晴らしいことを語ろうとも、いま

の重吉は、世界でもっとも影響力を持たない大馬鹿者でしかないのだった。

                                 了


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