SSブログ

第六百三十八話 扉を開けば [文学譚]

 扉を開けば、すぐに中から悲鳴が聞こえた。いやぁ、きゃぁ、ごめん、すみ

ませーん! 尻をむき出しにした若い女子が慌てて扉に飛びつくところだっ

た。私も驚いて、ごめんー! と言いながら扉を閉めた。だが、障害者用の

トイレは男女共有で、誰でも使っていいことになっている。このビルには特

に特定の障害者はいず、広くて快適な割には誰にも使用されていないの

で、私はよくここを使うのだが、こんなことははじめてだ。ノックをしなかっ

たのは申し訳ないが、ちゃんと鍵をかけないで便器に座ってしまった女も

落ち度じゃないか。だが、こんな些細なことでも、私はいたく申し訳ないよ

うな気持ちになるのだ。極めて小心者だから。

 扉を開けば、かつてはあれだけ賑やかだった事務所は閑散としていて、

聞けば、自宅待機がほとんどで、退職してしまった者もいるという。長引く

不況は、いったい誰のせいなのだろう。

 扉を開けば、難しい顔をした社長が座っていた。促されるままにソファに

腰をかけ、社長の言葉を待った。残念だが、事務所は締めることになった。

退職金などの手当は、わかっているだろうが零細企業のうちには出せる

目当てがないのだ。申し訳ないが。リストラならまだしも、会社がなくなって

しまっては、文句を言う矛先がない。私は職を失った。

 扉を開けば、怖い顔をした大家が立っていた。もう半年分も滞っている。

明日中に今月の家賃が払えないなら、出て行ってもらうしかない。私には

払える目処がないというと、残念だが、それでは、と言った。

 扉を開けば、悲しい顔をした女がいた。残りの慰謝料は待てるが、せめ

て子供の養育費だけは。別れた女房が、青い顔をしてそう言った。給料が

半減してしまった半年前から、振り込んでいないお金の催促だった。

 扉を開けば、冷たい機械が並んでいた。私は、無駄だということをわかっ

ていながら、もしやという思いからカードを機械に突っ込んだ。残高がありま

せん。期待通りの画面表示なのだが、私は腹が立って機械の足元を蹴っ飛

ばした。入口のところで立っていた警備員が驚いたような顔で鋭い視線をこ

ちらに向けた。

 扉を開ければ、にこやかな顔の店員が私に話しかけた。何をお探しでしょ

う? 強い睡眠薬をというと、そういうものはありません。有眠剤でも、医師

の処方箋が必要です。残念ですが。笑顔は不安そうな顔に変わっていた。

 扉を開けば、海の匂いと波の音が強く響いていた。こんなところで降ろす

わけにはいけませんよ、お客さん。タクシードライバーがそう言って、車の

扉を締めてしまった。まさかお客さん、崖から飛び降りるつもりなんじゃぁ

ないでしょうね。とりあえず、駅まで送りますから、考え直しなさい。老齢

の運転手はそう言って車を始動させた。

 扉を開けば、人の少ない寂しいホームがあった。海の町からここまでの

最終電車に乗せられて、またこの町に意味もなく舞い戻ってしまった。腹

が減っていた。ポケットにはもう小銭しか残っていない。 どうすればいい。

考えても仕方のないことだった。

 扉を開けば、暗闇があった。後ろで駅内の電灯が消されていく気配が

あった。駅の待合で過ごすことも拒否されてしまったのだ。あてもなくふら

ふらと歩き出す。大きな通りの向こうに知った顔を見たような気がした。私

は慌ててその人を追いかけようとした。右手から大きなトラックが近づいて

いることにまったく気がついていなかった。

 扉を開けば、ストレッチャーに乗せられて救急車に載せられようとしてい

るのは私の身体であるようだった。だが、私には意識がないのだった。

 扉を開けば、十年前に死んだ父と三年前に急逝した母が笑って立ってい

た。どういうことか? と聞くと、もう心配しないでいいと母が言った。これか

らまたみんなで暮らすのだと父が言った。私はまだ混乱していて、何がどう

なったのかわからなかった。だが、どうやら私が死んだらしいことがわかって、

安堵した。これでいいのだ。これが願いだった。

 また目の前に扉があった。さっきのが最後の扉だと思っていただけに、私

は驚いた。死んでなお扉を開かねばならないのだろうか。それとも、私はま

だ死んでいないのだろうか。何もわからない。わからないが、ここに扉が私

に開かれるのを待っていることは事実なのだ。どうする? どうもこうもない。

私はこの扉を開かねばならない。私はノブに手を伸ばした。扉がゆっくりと

開いていく。

                            了



読んだよ!オモロー(^o^)(1)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

読んだよ!オモロー(^o^) 1

感想 0

感想を書く

お名前:
URL:
感想:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。