第五百四十四話 記憶のメロディ [文学譚]
向日葵が一輪咲いている。かつては子供たちと同じ数の種が蒔かれ、やがて
すくすくと伸びた長い茎の先に大きな花を誇らしげに咲かせた向日葵がたくさ
ん並んでいたのに、この夏はたった一輪。華やかな黄色い大輪とは裏腹に、か
つてはきれいに整備されていた花壇には雑草が茂り、この町でもっとも荒れ果
てた場所となってしまった。こうした荒涼とした雰囲気をいっそうもり上げて
いるのが、その後ろに控えている打ち草臥れた色合いの建物は学舎だ。よく見
ればコンクリートのそこここにはひび割れが刻まれ、いつしか解体されるのを
待っている古い校舎。ほんの五年前まではまだ子供の声がよく響いていたこの
建物も、いまでは都会の真ん中に建つ古びた廃校に過ぎない。
いま、この建物のどこかからハーモニカの音が聞こえてくる。聞き覚えのあ
る、少し調子っぱずれなメロディ。ハーモニカ一本の音色はこの荒れ果てた建
物にふさわしく、心を締め付けられる思いがする。「これは確か・・・・・・」メロ
ディにつけられた曲名を思い出そうと声に出してみるが、思い出せない。他に
は誰もいないのに、一人で口ごもってしまう。口ごもってなお、思い出せない。
あんなによく耳にした歌なのに。
もう何年になるのだろうか。私の息子がこの学舎に通い、教室で覚えてきた
このメロディを私の前で披露してくれたのは。その頃の記憶など、ほとんど消
えてしまっているのに、音だけは鮮烈に蘇ってくる。無邪気にハーモニカを吹
いてくれた息子も今は大人になって、私の知らない社会で自分だけの人生を歩
んでいる。ハーモニカ少年とは同一人物なのに、いまではすっかり別人のよう
で、ある事情で別世帯になってしまってからは、顔を合わすこともほとんどな
くなってしまった。
だが、この廃れた建物の入り口に立って、古びた風景に埋め込まれた記憶の
断片をたどってみると、なぜか音だけは鮮烈に蘇ってくるのだ。ある種の匂い
が、それに伴った記憶を蘇らせるのと同じように、この風景は私に、思い出以
上に音を想起させる。音楽には、そんな不思議な力も秘められているのだ。
了
※2週間で小説を書く! (幻冬舎新書) 作者: 清水 良典 出版社/メーカー: 幻冬舎 の、<三題噺(ハーモニカ、黄色、口ごもる)>課題として
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