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第九百八十四話 笑うねずみ [文学譚]

 広い構内の一画に長い年月を経験してきたコンクリートの建物があり、その中に教授の研究室があった。さほど広くはない部屋だが、いまやノーベル賞に最も近いと噂される村下教授による一連の研究や実験がここで行われてきた。教授が携わっているのは分子生物学という分野で、わかりやすくいうと生命現象を分子で解読しようというものだ。最近流行りのヒトゲノムという遺伝子工学もこの分野に関連する。

 教授はいま研究室の片隅で熱心に実験を遂行している。

 こちょこちょ、こちこちょ。

「教授、どうですか? 今日も笑ってます?」

 この数年教授のアシスタントを務めている院生の葉子が尋ねた。

「ああ、もちろんだ。これで笑わないはずがない」

 ほんとうかなぁ、葉子は首を傾げながら教授の背中を見る。自分自身はあまりにも敏感で他人にちょっと触れられただけでくすぐったくて仕方がない。脇をくすぐられたりすると死んでしまうくらいに笑いを引きつらせてしまう。だが、動物が笑うなんて聞いたこともなかった。愛犬家の間では、うちの子が笑った! などという親バカな話はよく聞くが、ユーチューブにアップされた動画などを見ると、確かに笑っているような顔ではあるが、ほんとうに犬が笑っているのかどうかは怪しいものだと思う。飼い主自身の主観が入って、愛犬が泣いたり笑ったりしているように信じ込むのだ。猫なんて最初から口角が上がっているのだから、常に笑っているように見える。だが、はたして犬や猫にも人間と同じような感情があるのだろうかと思う。野生の動物が持っているのと同じ本能でもって、身を守るための敵意だとか、種を保存するための母性や保護依頼心のようなものはあるに違いないが、それらは人間の感情に似た部分もあるけれどもまったく同じではないような気がする。ましてこの小さな二十日鼠が泣いたり笑ったりするとはとても信じられないのだが、教授はそんなことはないと完全否定する。

「ほぉら、笑ってる笑ってる」

 覗き込むと教授は鳥の羽根みたいなもので台座に固定されているねずみの脇腹あたりをこそばしていて、ねずみはなにをするともがいている。その顔に笑いの表情があるのかどうかわからないが、頭に刺した電極から電線が伸びて横に置いてある脳波測定機を見ると、確かに針が大きく動いている。快楽中枢に差し込まれた電極に流れる体内電流の値を測定しているわけだが、反応しているということは羽根刺激によって脳が反応し、快楽を感じている方向に電気を発生させているということを示している。これが、教授がいうねずみの笑いなのである。

 現代人はよく病気になる。胃潰瘍、癌、神経病、心臓病……そしてその多くがストレスに因るものだと診断される。精神を蝕む強いストレスが肉体にまで影響を及ぼすということは広く知られている。ここでいうストレスとは負の要因だ。ここで教授が考えたのは負のストレスというものが肉体をマイナス方向に持っていくのなら、正のストレスは肉体をプラスの方向に持っていくのではないか。正のストレスとは負ではないということだ。それがたとえば笑いというものなのだ。

 教授は人間を被験者にした実験も行った。糖尿病患者を集めて、吉本興業の芸人のお笑いを見せたところ、その前後において血糖値に変化があった。笑った後には血糖値が下がったというのだ。もっとも血糖値を下げる芸人とそうでもない芸人がいることも確かなのだが。つまり面白くない芸は役に立たなかったということだ。

 この実験結果に気を良くした教授はより制度の高い値を得るために、動物実験を行っているのだ。ねずみが笑っているのかどうなのか、いまだに葉子にはわからないのだが、測定機は日夜確かな数字を叩き出している。近い将来、処方薬局で「笑い」という薬が出される日は近いのかもしれない。その日を夢見て、教授は今日もねずみの脇腹をくすぐっているのだ。

                                              了

                                          参考:村上和雄ドキュメント SWITCH


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