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第九百七十二話 日常の罠 [脳内譚]

 通勤電車はさほど混んではいない。混雑を避けて早めの時間に乗るようにしているからだ。乗客がまばらな車両の座席に座る人はなく、座席の上に立って吊革をつかんだ。会社はガランとしていつも通り一番乗りだ。ゆっくりと通勤服から着替えてデスクにつく。そのうち他の社員も出社して急いで制服から普段着に着替えてそれぞれの仕事をはじめた。定時がやってくると上司も姿を現しデスクにつくと、それまで業務についていた部下たちは皆手を止めてそれぞれにやりたいことをはじめた。

 夕刻になって就業時間になると、上司が接待のために夜の街にでかけてしまうと、皆はゲームやいねむりをやめて仕事に取りかかった。これからが残業代を稼ぐ時間だ。私は残業には興味がないので早々に会社をあとにして家路についた。

 家に帰るとさっそく会社から持ち帰った書類を鞄から取り出して、会社ではできなかった仕事に取りかかる。

「あなた、また仕事の宿題ですか?」

 夕食の準備をしていた連れ合いが食卓の上に広げられた書類の山を見ながら言った。なにを今さら? と言おうとして俺はなんだか違和感を感じた。なんだろうこの感覚は。いつからこんな風に仕事を持ち帰るようになったのかな? 家で仕事なんかしても残業はつかないのに。

 日常生活の中にはときとして自分でも気づかない理不尽なことや間違いが潜んでいるものだ。毎日同じことを繰り返していると、感覚が麻痺してしまってわからなくなる。いつだったか、ずさんな処理のために核燃料が臨界状態になるという事故があった。あるいは普通の会社でも本人も意識しないうちに横領を行っていたという話も聞く。善悪の境界線さえも曖昧にしてしまう罠が日常の中には潜んでいるのではないだろうか。

 俺はまだ通勤用の制服を脱いでいないことに気がついた。皺になってしまう前にセーラー服を脱いで楽な家着に着替えた。相方は昔仕事しているときに使っていた背広を、持ったいないからと家で着用している。なにもネクタイまでしなくていいのにと思うのだが。しかし彼はいつ会社を辞めたんだっけ。俺はいつから自分のことを俺と呼ぶようになったんだっけ。ああそうか、子宮癌が見つかって治療を受けたあたりからだ。俺にはもう子供が産めないのだと宣告されたあのあたりからだ。夫も俺もひどいショックを感じて日常が崩壊してしまったように感じたあのときからだ。

                                                        了


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