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第九百七十一話 天才少女の反抗 [文学譚]

 広場の中央に少女は立っていた。前の時代に敷きつめられた花崗岩の石畳を踏みしめる両足は素足のままで外国製の革のスリッポンに包まれていて、十五歳らしいなめらかな皮膚を持ったほっそりとして形のいい脚を覆い隠しているのは生成り色のたっぷりと生地を使ったワンピースで、ノースリーブの肩から伸びた両腕は指先を下方に向けて両サイドに広げられている。少女は深呼吸でもするような体勢で気を集中させているように見えた。彼女の周りを大勢の人々が息をつめながら取り囲んでいる。ざっと三十人、いや、五十人には満たないくらいの老若男女が少女の動向を待ち続けている。誰ひとり声を出さない。衣擦れの音さえもがこれから起きるであろう素晴らしい体験を損ねるのではないかと恐れて身動きひとつできない状態で少女の動きを見守っている。

 うつむいていた少女の顔がゆっくりと動いてあたりを見まわしながら少しずつ上を向きはじめる。いよいよだ。ついに少女は口元に微笑を浮かべながら斜め上方に視線を向けて眼を閉じた。静かに唇が動いて口腔内の空間を広げながら顎を下げていく。やがて大きく開かれた唇の奥深くからしっかりとした響きを携えた少女の声が発せられた。

「あー」

 少女が発した一音は細くもあり太くもあるような高い音程の声で、天にも地にも響きわたる不思議な調べを湛えていた。人々は自分の鼓膜を振動させはじめた少女の声に神経を集中させ、鼓膜の振るえは内耳から脳神経網に広がり大脳辺縁系を刺激した。シナプスを伝わって広がる電気信号は他の器官への命令信号に変わり、ある者は涙腺から体液を滲ませ、ある者は頬の筋肉を吊り上げ、ある者は眼を瞑って唇を噛みしめ両手を握りしめながら嗚咽した。

 ある詩人がレストランのメニューを読み上げ流だけで聴衆を感動させたという逸話dえが残されているように、少女もまたただの一音を発するだけで人々の心を震わせる力を持っていた。少女は天性の詩人であり作家であり朗読者であり唄歌いであった。長大なシンフォニーを聴くまでもなく、たったひとつの発声だけで地上のすべてを理解できたように感じさせてしまうその能力に人々は魅了され尽くしているのだ。

 少女が発した「あ」に続く言葉はなんなのだろう。なにを意味する第一声なのだろう。「愛」「哀」あるいは「合」? もしかしたら「明日」? フランス語のAmiかもしれない。人々の想像力がかきたてられる。できれば「I」ではなく「愛」であってほしい。そう思った人は少なくないだろう。しかし少女はみんなに聴こえるようには次の音を発しなかった。それでも人々は感動し、満足し、少女に感謝の念を送った。

 少女は「あ」を発声させながら少しずつ唇の形を変え、口腔内の空洞を変形させて、次の音声の準備をしていた。そして「あ」の排出をとめ、人々には聴こえないほどの声量で二番目の音をつぶやいた。

「ほ」

                                       了


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