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第九百十五話 一文字苦no [日常譚]

 デスクの上に屈みこんでいるその顔を白く光らせているディスプレイには、真っ白な紙に見える画像が映し出されていて、カーソルと呼ばれる電気の印が一か所にとどまって軽く点滅している。キーボードが操作されてなにかが入力されるのを待っているのだが、たった一文字が書き込まれては消されてまた書き込まれては消されてが繰り返されている。さきほどからキーボードの上に両手の指を徘徊させているのは龍介という男なのだが、その左手は自分の髭だらけの顎をさすってみたり口から鼻にかけてを撫でてみたりしてはまたキーボードに戻している傍ら、右手はひたすら黒いキーボードの上を右から左へ、上から下へと行ったり来たりさせているのだ。あるとき、ふうと息を吐いたかと思うとおもむろにAと書かれたボタンを左手の人差し指が推してみる。すると画面のいちばん右上に「あ」というひらがなが現れた。

「あ」の文字はその後ろに点滅するカーソルを控えたままいつまでも「あ」という一文字のままで、その後をフォローする文字はいつまでたっても現れてこない。なぜならまたしても龍介の両手がキーボードと顔の間を彷徨い続けているからだ。

 龍介はまだ作家になりきれないでいる自称物書きだ。文章を書くことにはそれなりに自信があり、これまでの人生でなにか文字を書くのに困ったことなど一度もない。若い頃から小説を書いてみたいと思ってはいたが、なかなか踏み切れないままに人生の後半を迎えてしまっているのだ。定年を間近に控えた年齢になってようやく一念発起して得意な文章を書き連ねていこうと考えた。最初の数十枚はいとも簡単に出来上がり、その後も百枚前後の作品を次々と書き上げていった。妻に見せると面白いというし、友人に読んでもらっても、読みやすいよなどと悪いことは言われなかったので、いい気になっていたが、こんなに簡単に書けていいはずがないと思いなおし、改めて小説の指南書を何冊も読んでみた。すると、自分がなんと思いあがっていたのか、文章が得意だなどとよくも思っていたものだと、反省すべきことが次々と露わになってきて、そうしたことを胸に刻めば刻むほど、得意だと思っていた文章が一行も書けなくなってしまった。とりわけ、小説書きに必要だとされる「正確な描写」については、そうたやすく書けるはずがないとする某作家の言葉が深く脳裏にしみ込んでいて、では自分がいともたやすく書いていたあれはまったく正確さを欠いていたのに違いないと認識した。その後こうした思いはますます深く停滞して、一行どころか一文字も書けなくなってしまったのだ。実際には書くというよりはキーボードで打ち込むという作業なのだが。

 龍介は画面に現れた「あ」という文字をじっと見つめる。はて? ぼくはなにを書こうとしたのだっけ。「あ」……あれから……いやちがうな、あたし、でもない。あの頃……全然違う。ああーだめだ。削除。やっとの思いで打ち込んだ「あ」の一文字をまた消してしまい、視線が白い画面を泳ぎはじめる。なんてこと。このぼくが? このぼくが! このぼくが一文字も書けないなんて。

 急に思いだす。小学校に入ったばかりの作文の時間を。一年生になったばかりの生徒の前には一枚の原稿用紙が配られていて、みんなそれぞれに鉛筆をかたかた言わせて作文を書いているのだが、龍介はいつまでも白いままの原稿用紙を見つめていた。まもなく終了のチャイムが鳴ろうかというころ、女教師が近付いてきて龍介の真っ白な原稿用紙を発見した。せめて名前だけでも書きなさいと言われた龍介は、へたくそな文字で一年一組と書き、その後ろに名前を書いた。そのとき急にひらめいて、題名のところにあることを書いた。

「書くことがない」

 書くことがないということを書こうと思いついた龍介は、これでいけると思った。本文のところに鉛筆の先を当てて、「ぼくは何も書くことがない」と、題名と同じことを書いたとたんにチャイムが鳴って、作文用紙が回収されてしまった。

 まるでいまの自分はあのときの、あの一年坊主と同じだ。龍介は一人苦笑いする。だが、大人になったいまは書くことがないわけではない。書きたいことは山ほどある。なのに最初の一文字が書き出せないでいる。こういうのをスランプというのだろうか。いやいや、まだはじめてもいないのに、スランプだなんて、ぞこがまず間違っているんだなぁ。独り言を言い、ため息をついて、肩を落とした。

                                                       了


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