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第六百四十四話 臨場 [文学譚]

 勤め先に続くいつもの道を歩きながら、足元が浮ついているような奇妙な感

覚に襲われる。ふらついているわけではない。しっかりと歩いているつもりな

だが、まるで自分の足で歩いていないような感じ。いや、確かに一歩ずつ前に

進んでいるのは私自身であるのだが、なんともいえず頼りない感じ。

 毎朝、同じ時刻に家を出て、同じ通りを歩いていく。目をつぶってでさえ歩ける

というのはたとえ話だが、そのくらいに馴染んだ道筋なのだ。アスファルトの車道

から数センチほど立ち上がっているコンクリートの歩道。ちょっと前までは何台も

の自転車が止められていたりして、歩きづらかったのだが、最近は規制が入って

放置自転車はほとんどなくなってしまった。すっきりした歩道を歩き継いでいく。食

堂やコンビニ、煙草屋など、見慣れた風景を通り過ぎて歩いている実感はあるの

に、足元だけがそれこそ地に足がついていないような感覚。

 これは今日にはじまったことではない。もう、ずいぶん前からこんな感じになって

いるのだと思い出した。そう、あれは母が亡くなった直後から。

 私は年老いた母を助手席に乗せて車を運転していた。週に一度、私はお休みを

とって、病気の母を病院に連れていった。母の病気は思わしくなく、かといってすぐ

にどうこうなるような病でもなく、とにかく悪化していないかという検査をすると同時

に、少しでも進行を遅らせるための処置が必要だった。それに、そろそろ痛みが出

はじめる時期でもあった。病院まで小一時間の距離であるが、大きな病院というも

のは、受付をしてからずいぶん待たされて、検査や診断を終える頃には、正午を

大きく過ぎている。お腹減ったよねぇと言いながら帰り道を走り、交差点の反対側

にある店で何か食べようと信号待ちをしていたら、左手から大きな車が、赤信号に

変わりかけているのに飛び込んできて、しかもハンドル操作を誤ったのだ。気がつ

けば私は病院に舞い戻っていた。

 白い壁、白い天井、白いベッドに横たわった私。痛みなどなかった。幸い私はどこ

にも怪我などなかったようだ。だが母は。病室にやって来た看護師に母の様子を訊

ねると、少しお待ちくださいといって誰かを呼びにいった。代わりに医師がやって来

て、静かな声で言った。「残念ですが……」

 母は病気で苦しむ前に、交通事故で逝ってしまった。即死だったそうだ。トラックは

助手席側から来たので、母には直撃だったが、その空間がクッションになって、運転

席側にいた私はダメージを受けずに済んだのだ。葬儀を終え、初七日を済ませ、四

十九日も終えたあたりで、ようやく母の死を実感することができた。悲しみは一気に

やって来て、しばらくは去らなかった。

 母がいない家に、母の面影がはりついている。部屋のそこここに母の影を感じ、

かといって母の実体があるはずもなく、頼りなさだけを感じた。母が遺した品々と、

私の中に染み付いた記憶が入り乱れて、私は少しだけ混乱した。悲しみはとっく

に通り過ぎているのに、壁にかかった暦を見ているだけでも涙がこぼれてきた。

母の死はとっくに受け止めているのに、意味もなく虚しさの涙がこぼれた。

 このころから私の足元が浮つきだしたのだと思う。母は確かに亡くなったのだが、

果たして私はほんとうにきているのだろうか。あのときほんとうは母と一緒に死

んでしまったのではないだろうか。いやそうではない。私は生きている。だが、母と

一緒に死ぬべきだったのだ。病気の母だけを先に逝かせるなんて、そんなことを

受け入れるべきではなかったのだ。そのとおり。だからお前は死んでいるのだ。

肉は生きているのかもしれないが、魂はあのとき死んだに違いない。ほとんど妄

想といえる思いが波のようにやってきて、私はふらふらと歩く。歩いて仕事に出

かけ、無心に働き、またふらふらと歩いて帰ってくる。

 母が私を育てることを生きる糧にしていたように、病気の母の世話をすること

が私の生きる糧だったのだ。大げさかもしれないが、人生の目標を失った人間

は、魂が抜けてしまった人間だ。ふらふらと歩きながら、咳が出る。あれ。この

咳は? 肺を患った母が同じ咳をしていた。胸が苦しくなる。けへけへ。がふが

ふ。咳が止まらなくなる。ああ、苦しい。この身体は私のものだ。だが、身体の

中にいるのはほんとうに私なのだろうか? 私の身体に母が入り込んでいるの

ではないのだろうか。ふわふわと歩きながら、私は両手を突き出し、掌を見つ

める。まだこれは年寄りのものではない。確かに私の掌だ。だが、ほんとうにそ

うなのかどうか、自信がない。年老いた母の掌をちゃんと覚えているか? こん

なものではなかったか? 道沿いのビルのガラスに映る姿が目に入る。あれは

私か? 母か? 若いときの母なのかもしれないな。

 別に頭がおかしくなったわけではない。ただ虚しさを感じるだけ。私はすっかり

薄くなってしまった自分の影の上に足を下ろし、手応えのない地面をしっかりと

踏みしめた。

                                     了



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