第六百四十二話 ダブル・バインド [文学譚]
母は外向きの顔をくっきりと持った女だった。よそ様の前では、「まぁ、ウ
チの娘は勉強もできませんで、健康で元気でいてくれるだけでいいと思っ
ていますのよ」などと言うくせに、家にかえったとたん、もっとしっかり勉強
して、何かひとつくらい自慢できるものをつくりなさい! ときつい口調で言
ったものだ。そんな母に育てられた私は、とにかくひとつだけでも得意科
目を作らなきゃぁと、英語だけは頑張ったが、それでもようやく人並みの
成績を取れるくらいにしからなかった。
学校を出て小さな機械メーカーに就職した私は、グローバル企業を目
指すトップの姿勢が気に入っていた。
「社長もああおっしゃっているのだ。我社はこれからもっと海外に目を向
けて活動を行うためにも、社員一人ひとりがグローバルな視点で自分の
意見をきちんと発言できるようになってください」
全体朝礼で本部長があまりに力説するので、私はついその気になって
手を上げた。
「うん? 君は新入社員だね?」
「はい、あのぅ、私もグローバル・コミュニケーションスキルを磨くことがと
ても大事だと思います!」
「うむむ……」
予期しない発言に目を白黒させている本部長の隣にいた課長が割って入った。
「本部長、この子はまだ入社したてで何も分ちゃぁいませんので気になさらな
いでください」
そして課長は私に向かって言った。
「君ぃ。君は空気を読めんのか? こういう話は黙って聞いていなさい! っ
たく、女子社員のくせにでしゃばって」
帰り道。駅前で政治家が街頭演説を行っていた。
「平和な社会。紛争のない世界。そのためには、強い日本を作ることが大切で
す! 国民のみなさん、他国に負けない軍備を整えることが、我が国には必要
なんです!」
私はなんだか軽い頭痛を覚えた。なんだか、世の中って複雑だなぁ。世渡り
の難しさを覚えながら、頑張らねばと気を取り直した。明日も朝が早い。私は
我を忘れるために、いつもの酒場がある方向へと足を進めた。
了
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