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第五百十八話 境界 [妖精譚]

 姉と僕の机の間には境界線が引かれてあった。小学生の頃の話だが、二席分

が横に繋がった長テーブル、それが僕らの学習机だったのだ。子供のすること

だと理解してもらえるとありがたいが、僕らは物差しでキッチリと測って、ち

ょうど真ん中のところに油性ペンで千を引いて、お互いに不可侵条約を結んで

いたのだ。

 机の上に重ねている本がはみ出したり、ちょいと肘でもはみ出そうものなら、

大騒ぎになり、誰が悪い、どっちが悪いと喧嘩に八天することさえあった。

「今度約束破ってはみ出たら、あんたはもう人間じゃなくなるわよ!」

 当時から気が強かった姉は、いつもそんなことを言って僕を脅かした。人間

じゃなくなるというのはつまり、人間以下ということだったのだろうが、その

当時、テレビでやっていた特撮ドラマか何かで、人を騙してばかりいる悪者が、

とうとう化け物に変身してしまうという話が姉弟にとって驚愕の物語として刷り

こまれていたために使われた比喩だ。それでも僕にとっては、あの怖い話を思い

起こさせ、行動を慎重にせざるを得なくなる脅し文句なのであった。

 あれから二十余年が過ぎたいま、そんなつまらないことで喧嘩をしていたこと

などすっかり忘れているのだが、たまに姉弟が出会うと、思い出話のひとつとし

て姉の口から語られることがあった。そして、僕はその話を聞いて笑いながら、

心の中では腑に落ちるものがあるのだ。

 実はそんな思い出話など忘れてしまっているのにもかかわらず、未だに僕は境

界線に弱いのだ。サッカーをするときの外枠の白線、試合中には絶対にはみ出た

ことがない。道に引かれた横断歩道の白線、駅のホームの白線、駐車場の区画を

分ける線、そうした日常的に存在する境界線が気になってしようがないし、また

それらの線をはみ出したことがない。そんなことをするととんでもないことが起

きてしまうような恐怖を覚えてしまうのだ。

 なぜそんなに几帳面な性格なんだろうと不思議に思っていたが、姉の話を聞い

て、そのルーツがわかったような気がした。なぁんだ、そんなつまらない姉弟喧

嘩のせいで、僕は小さな人物になっていたのだなぁと、妙に納得したのだ。

 ある日、駅のホームに立って電車待ちをしていた僕は、ふと、自分を小さくし

ている習慣にけじめをつけたいと思った。ホームの端に引かれているこの白線を

いつもなら決して踏み越えないのだが、これを踏み越えることによって、自分の

中の何かが大きく成長出来るような気がしたのだ。もちろん、そんな馬鹿げた気

持ちは、大の大人が持つものではないことくらいわかってはいるのだが、ほんの

いたずら心とでも言うのだろうか、あるいは験担ぎみたいな気持ちだったろうか、

白線越えを結構することにしたのだ。

 なぁに、ちょいと足の先を線の向こうに置いてみるだけだ。この期に及んで、

まだ何かにこだわって、自分に言い訳している僕。回りには誰もいない。僕は

一歩、二歩、前に前進して、白線の手前でいったん立ち止まる。ひと呼吸して

から、思い切ってもう一日前に。僕は思いの外大きく白線の外に歩を進めてし

まった。ホームの縁スレスレのところまで来てしまった。おおっと、それ以上

前に行くと、落ちてしまうところじゃないか。と思った瞬間、どういうわけだ

か、脚が攣った。攣ると同時にバランスを崩す。同じタイミングでいつの間に

か接近していた特急列車が通過するために入構する。風が巻き起こって、僕は

吸い込まれるように、白線の向こうで姿を変えてしまった。

                       了



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