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第百五十七話 走る包丁。 [恋愛譚]

 「行ってきまーす。」

 夕子が出かけた。いつものような快活さで、まるで会社に行くようなさりげなさで。

でも本当は違うんだ。夕子は男と会う。会うだけでなく旅行に行くんだ。「週末ちょ

っとお友達とお泊りしてくるね。」そんな事を言って、楽しそうにボストンバッグに

荷物を詰めているその横顔は、どう見ても女友達と一緒に行くのではない艶やかさが

あった。そうはわかっていてもいつも”優しいいい人”を演じ続ける僕は、ニコニコ笑

って「ああそう、気をつけて楽しんでおいで」なんて言ってしまう。心は真っ白にな

りながら。

 僕と彼女は結婚しているわけではないが、もう長らく一緒に住んでいる。いわゆる

内縁ってやつになるのかな?僕はただの同棲だと思っているが。別に仲違いしている

わけではない。なんとなくお互いに落ち着いてきて、まぁ、長らく連れ添った夫婦の

ように空気のような存在になりかけているだけだ。昔は僕の帰りが遅いと怒っていた

夕子だが、最近では顔色にすら表さない。むろん、食事の準備をして待っているなん

てこともない。僕もそうだ。かつては彼女の帰りが遅いと心配していたのだが、この

頃では、またどこかで飲んでいるんだろうくらいにしか思わない。だからといって嫌

いあうようになったわけではない。ただ空気のような存在になっているだけ。空気を

愛するというのも変な感じだが、たぶん、二人ともお互いに愛し合っている、はずだ。

 その彼女が、最近妙に色っぽい。何がと言う事もないが、僕らが出会った頃のよう

ななまめかしさを感じるのだ。こればかりは誰かに同意を得るわけにもいかず、僕の

思い過ごしと言う事もあり得るわけだが、今朝出かける様子を見てなおさら確信した。

 僕は彼女が出かけるのを見送るフリをして、すぐに後を追いかけた。すると、アパ

ートの前の通りを大通りに出たところに止まっていた車に乗り込んでしまったので、

そこで追跡を断念せざるを得なかった。僕は車というものをもっていないから。だ

が、その車の運転席に座っていたのは、間違いなく若い男だ。ショートカットのが

っしりした感じ。スポーツでもしているのだろう。浅黒い顔にサングラスをしてい

るので、ちょっとコワモテな雰囲気だった。

 すごすごと部屋に帰った僕は、この土日をどのように過ごそうかと思案した。い

つもなら、二人でいてもそれぞれが勝手に過ごしたり、ご飯も時々は一緒にランチ

に出かけるものの、だいたいは思い思いに食事をする。だからいまさら一人にされ

たからということでもないのだが、男と出かけてしまったという事実が重くのしか

かって、僕は自分の居場所 を失ってしまった気分だった。

 そろそろ二人の関係をちゃんと見直さなければならない時期なのかなぁ。そう思

ったが見直すといっても、何をどう見直すのだ?それではまるで別れ話をするみた

いではないか。僕は別れることを望んでいるわけではない。ただ、二人は今のまま

でいいのか?と思うだけなのだ。

 尊敬と感謝。そうだ、僕らはこれを失いかけてるのだ。脈絡もなくそう思った。

出会った頃、夕子は年上で仕事の先輩でもあった僕のことをすごく尊敬してくれてい

た。僕だって、真面目で女らしい彼女に敬意を払っていたと思う。感謝。それはボク

が子供の頃から親に教えられてきた気持ちの持ち方。僕と一緒にいてくれる彼女に感

謝し、彼女だって半ば養っている立場の僕に感謝の言葉を投げかける事も多かった。

ところが今は、何度も言うがお互い空気のようになってしまっていては、尊敬も感謝

もあるまい。だからなんだかおかしな具合になっているのではあるまいか。

 考えているうちにだんだんと虚しさを覚えてくる。そもそもこの所、仕事の具合も

よろしくなくって、いわゆるメンタルヘルス的におかしな具合になっている僕は、毎

月心療内科に通っているのだ。軽鬱っていうか、気分変調症というか、いつも気持ち

がふわふわして現実感が乏しく、何をやっても虚しく面白くなく、今まで興味のあっ

た趣味や娯楽への興味も薄まっていて、自分でなんだかおかしいと思っている。心療

内科の医師にそれを告げても、「はぁはぁ、そうですか」というばかりで、特に僕に

”鬱病”だという診断を与えるわけでもなく、「投薬してみましょう」と軽い抗鬱剤を

処方する。僕はこの薬に意味があるのかないのかよくわからないまま、もう一年近く

飲み続けているのだ。

 彼女との間が暖かくないのは、もしかすると僕のこの”病気”が原因なのかもしれな

い。だが、それを言い出すともう僕は死んでしまうしかないので、そうは考えないよ

うにしている。

 死ぬ?そうか、僕が死んでしまうとどうなる?頭の中に母親が昔口ずさんでいた古

い歌謡曲が自然に甦ってきた。「アカシヤ~の雨に打たれて~私は~死んでしまいた

い~」なんて古い歌。母が歌っていなければ僕みたいな年齢で知ってるはずのない歌。

その後はどうだっけ?忘れたなぁ・・・「~冷たくなった私を見つけて~あの人~は

~涙を~流して~くれるでしょうか~」こんなのだっけ。

 頭の中で繰り返しこの歌を歌っていると、おかしな気持ちになってきた。・・・そ

ういえば、今何時だろう?辺りはすでに薄暗く、日が暮れていた。僕は夕子が出て行

ってから、食事も摂らずあらぬ事ばかり考えていたらしい。いかんいかん、これでは

本当に病気になってしまう。そう思った僕は、気晴らしに出かけようとジャケットを

羽織って見たが、どうも玄関のドアを開ける気にならない。近所の店でビールを飲み

ながら食事をしている自分の姿を想像してみたが、どうも今日の気分ではない。僕は

お湯を沸かして、戸棚にあったインスタントラーメンを作って食べた。そしてそのま

ま床の上で眠ってしまった。

 早朝。目を覚ますが、とても爽やかとはいえない気分だった。テレビの前でしばら

く・・・たぶん3時間ほどぼんやりした後に、シャワーを浴びようと思った僕の手に

は、何故だか包丁が握られていた。え?何で?自分でもいつの間にそんなものを持っ

ていたのか覚えていない。風呂蓋の上に包丁を置いて、シャワーを浴びる。滴り落ち

るお湯を頭から浴びながら、僕は何故だか嗚咽していた。シャワーなのか涙なのかわ

からない。顔中にシャワーを浴び、洟をかみ、ついでに小便をした。さまざまな液体

が僕の足元を流れていく。僕はそのまましゃがみこんでいつまでもシャワーを流し続

けていた。

IMG_4450.JPG

 蓋の上の包丁。何でこんなとこにこんなものが?そうか。僕は何かをしたかったん

だ。再びあの歌が響く。「アカシヤーの雨に打たれて~このまま~死んでしまいたい

~」僕はそーっと包丁を手首に充ててみる。湯気だらけの風呂場の中で、ただ一点冷

たい感触が手首にあった。このまま引いてしまえばいいのか?右手の包丁を握りなお

して、少し手前に引いて見た。手首の皮が破れて赤い血が滲む。足元に流れていた液

体に、もう一種類、赤い液体が加わる。

 どれくらいそうしていたのだろうか。いつの間にかシャワーは止まっていて、僕の

体はすっかり冷え切っていた。「冷たくなった私を見つけて~あの人は~」また音楽

が聞こえた。凍えそうになりながら僕は風呂場を出て、バスタオルで体を拭いた。タ

オルが赤く染まる。何でだ?手首が切れている。僕は何かしたのか?

 髪をタオルで拭いて乾かし、服を着て、なぜだか風呂場にあった包丁を持ってリビ

ングに戻ろうとしたとき、外廊下で物音がした。夕子が帰ってきたのだ。僕はリビン

グの扉に隠れて様子をみていた。「楽しかったよ、また遊ぼうな。」男の声がして、

どさっと荷物を置く音がする。「うん、じゃぁね、今日は本当にありがとう。」夕子

がそう言って扉を閉めたとき、僕はふらふらっと玄関口に出た。いったいどんなやつ

なんだ?そういう思いがこみ上げてきて、下駄に足を突っ込んで外廊下に飛び出した。

廊下に出ると、階段の降り口に男の後姿が見えた。僕は走った。男を追いかけた。カ

ンカンカン!下駄が響く。階段まで来ると、一階まで降りた男が振り返っていた。僕

に気がついた男も走り出した。カンカンカン!僕は二段飛ばしで階段を走り降りて、

通りに出る。男はもう大分向こうにいた。カンカンカン!僕は追いかけたが、下駄で

はどうも走りにくい。追いつくまもなく、男は車に乗って行ってしまった。僕はまた

取り残された気分でそこに佇んでいた。手に包丁を握り締めて。

                        了


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