第九百七十七話 あな、おかし [文学譚]
洗面所の鏡の前に立って歯ブラシを動かしながら顔を覗き込む。昨日の疲れが少し眼元に残っているほかは、なにもかわったところはなさそうだ。女性はどうかわからないが、男はふつうそれ以上に顔のチェックはしない。まして身体をチェックするなんてことはめったにない。だが、ときには自分の身体を隅々まで点検してみた方がいいようだ。
それはほんとうに偶然発見した。というか隣で寝ていた妻が見つけた。
「あなた、これってなんだか穴みたい」
妻は眠っている間に妻の身体の上に投げ出されていた私の腕を両手で抱えて顔を近づけていた。
「ほら、ここ。肘の後っ側」
まだ眠たいよと言う頭を無理やり目覚めさせて腕を顔に近づける。が、自分の肘の後ろ側なんてよほど腕を捻じ曲げないと見えるものではない。かろうじて見えたのは黒い小さなほくろだった。
「なんだよ、ただのほくろじゃないか」
「ほうろ? 違うわよ、穴よ、穴」
「そんな穴だなんて」
言いながら左手で触ってみると確かに微妙にへこんでいるような気もする。小さくて黒い点は、穴にも見えるし、ほくろにも見える。疣状になったほくろっていうのは聞いたことがあるけれども、へこんだほくろってあるのかな? 気にはなったが痛くもかゆくもないので、気にしないことにした。
「もう、ほっといてくれ。ただのほくろだよぅ」
妻はちょっとだけ心配だったみたいだが、ベッドから離れるともう忘れてしまったようだ。それから何日か過ぎて私自身もそのことを忘れていたし、肘の裏のほくろが問題になるようなこともなかった。だがしばらくして今度は手の甲に黒く小さなほくろを見つけてしまった。手の甲にほくろがあるのは昔から気がついていたが、そのほくろが少しおかしいのではないかと思ったのは初めてだ。気にしなければなにも気にならない程度の小さなほくろだし、なんの害も及ぼしていないのだが、あのとき妻が見つけた肘裏のほくろの一件が微妙に影響を及ぼしているに違いない。
手の甲のほくろは肘と違ってしっかり観察できる。ちょうど小指の付け根あたりの外側端っこにあるのだが、奇妙なことに両手の同じあたりに同じようなモノがあるのだ。じーっとみているとやっぱりただのほくろのようでもあるが、さらに見ていると穴のようにも見えてくる。試しにと思って妻楊枝での先を穴の中に差し込んでみようとしたが、妻楊枝は普通の肌にめり込む程度に穴をへこませるだけで、それ以上は入らなかった。つまり穴があいているわけではないということだ。しかし見れば見るほど穴があいているように見えてしまうのが奇妙だった。
私はときどき奇妙な行動を取ることがある。なにも考えずに歩きまわっていたり、起きているのに夢遊病者のようにうろうろしたり、自分の意思とは無関係に冷蔵庫を開けてみたりする。これは癖のようなもので、私自身が気づいていなかったりもするのだが、妻に文句を言われることがある。もう、邪魔だからうろうろしないで。ぼんやりしてると怪我するわよ。なに考えてるんだか知らないけど、意味もなく冷蔵庫や戸棚を開けないでよ。何かいるものがあるの? そう言われてはじめてあれ、なにをしようとしてたんだっけなどと気がつくのだ。まぁしかしこのようなことは誰にだってあることだろう? 違うか?
手の甲のほくろが気になりだしてから、ほかのところにも同じようなほくろがあることに気がついた。人間の皮膚にはいたるところにほくろやシミや痣のようなものがあったりするから、四十数年の人生の中でそんなことを気にしたことなどないのだが、肘裏や手の甲のほくろに気づいてからというもの、妙に神経過敏になってしまっているようだ。もしやと思ってもう片方の肘裏をチェックしてみたら、やはりそこにも同じようなほくろがあったのだ。私は風呂場の壁に張り付いている鏡の前に裸で立って、全身を探し回った。どこを探せばいいのかなんとなく見当をつけていた。両肩、両膝、足首と足先、尻の上、頭のてっぺん。頭は髪の毛があるので探し出せなかったが、少なくとも見当をつけたあたりには何かしら似たようなほくろというか穴を見つけた。そしていずれも見れば見るほど穴に見えてしまうほくろのようなもので、しかし妻楊枝の先は入らない。一体これはなんなのだろう。
「おーい、ちょっときてくれないか」
見てもらおうとキッチンにいた妻を呼びつけた。
「なにしてるのよ。お風呂に入ってると思ってたわ」
事情を言って体中の穴を見せた。すると妻は笑いながら言った。
「あら、まるでマリオネットみたいね」
「マリオネット? なんだそりゃ」
「操り人形よ。ほら糸で吊って、天井から操る。その糸を結び付ける場所にあいている穴みたい」
なるほど。ちょうど人形を意のままに動かすために必要な各関節あたりに糸を結び付ける穴があいているわけか。私は気持ち悪くなって、穴のあたりに糸が絡みついているのではないかと手で探ってみたが、むろんそんな糸が天井から垂れ下っているわけはなかった。
「あなたなんだか変よ。そんなの気にする必要ないよ」
妻はキッチンに消え、私は無意識に身体にかけ湯をして浴槽の中に沈んだ。
了
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