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第九百九話 書き苦気涸 [脳内譚]

「言葉を正確に記述することこそが、文章を書くことにおける唯一のモラリティーである」

 二十世紀初頭にアメリカで生きた詩人で音楽家のエズラ・パウンドが言ったそうである。見習いの私はこれまでも間違いのない記述には気をつけていたつもりではあったが、改めて自分を戒めるために紙に書いて目の前の壁に貼ることにした。

「言葉を正確に記述する」

 黄色い付箋紙に書いて壁に貼った。デスクの前の壁にはすでに様々な紙が貼られている。ピンクの紙には「文学は格好悪い」、黄色い紙に「形容詞はうざい」「ストーリなど考えるな」これらは最近貼りつけた”書く”ことに対するメモだが、それ以前に貼った黄色く変色した紙には、親を大切にするだとか、余計なことは言わないなどと、人生格言みたいなものも貼っ付けている。まぁ、こういうのは良しとしよう。だが、最近の、書くことに対して戒めたメモはなんだかずっしりと重く、これによってむしろ一文字書くことさえ躊躇してしまう雰囲気を自分の中に形作ってしまった。

 そもそも「言葉を正確に書く」とはどういうことなのだろう。エズラ・バウンドの言葉を紹介している先生は、「正確に書こうと思ったら、言葉はそんなにすらすら書けるものではない」とさえ言っている。それに引き換え私の書き方の軽いこと。これでも私自身は間違いなく書いているつもりなのに。もっと言葉を吟味して、読み返して、言葉を選び直して言い換えて書けということなのだろうか。

「インプロビゼーションのように書く」

 これは別の先生からいただいた言葉だ。前もって考えた言葉が小説の中で使える可能性はゼロに近いという。これには私もいたく共感したから、紙に書いて壁に貼っ付けた。しかし、吟味しつくして書くのと、即興的に書くのは正反対のやり方だ。共通しているのは、どちらも難しいということくらいだ。私はため息をついてデスクに肘をつき、そのままの姿勢で頭を抱え込んだ。ついでに古参作家みたいに紙をぐしゃぐしゃっと掻きむしった。何本かの長い毛がはらりと落ち、ついでに乾いた頭皮が剥がれ落ちた。いや、頭皮が先に落ちたのかもしれないが。

 とにかく、「正確に書く」ことに被れてしまった私はこの時から異常に遅筆となった。いままでは原稿用紙の十枚程度なら三十分で書きあげていたのに、いまや一文字数分だ。ここまで書いてきたこの文章も、三日はかかっている。いったいどうしたというのだ。正確に書くとはこういうことなのか。ここまでの記述をすべて選択して削除ボタンを押したい衝動に駆られる。しかしそんなことをするとこの三日間が無になってしまう。それでもいい。そうすることの方が大事なんだ。先の先生がそう言っている声が聞こえる。だめな文章を後生大事に持っていても仕方がない。ある芸術家は過去の作品すべてを破棄して新たな創作に臨んだという。文章だって同じ。駄文はあくまでも駄文だ。

 もし明日、いま読んでいるこのページが真っ白になっていたとしたら、それは私が自分の駄文をはっきりと認識し、正確な文章のための次の動作に入ることができたということだ。だが、そうでなければ……このページがこのまま存在し続けていたとしたら……私はもう、書くことを諦め、ほかの何かをするために、どこかに足を運んでいる最中かもしれない。

                                               了


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