SSブログ

第七百二十九話 温泉遊び [文学譚]

  かつーんと、桶がタイルの床に当たる音が響く。湯浴みをする客の声が反響
して、それが風呂屋らしい風情となっている。いくつもある大きな風呂桶に
身を沈めるみんなの表情が上気していかにもくつろいでいる様子がわかる。
わたしも早くその中のひとりになろうと、急いで掛け湯をしていちばん広い
浴槽に足を踏み入れた。
 その瞬間、湯の底に沈む足元がぬるりとして足の裏から逃げていき、あっと
いう間もなく頭が重力に引っ張られてしまった。ゆっくりと壁が揺らいで視
界に天井が入り込む。それはそれはゆっくりと頭が下がって、自由意志では
なく、後頭部から湯の中に突っ込んでいく。同じ浴槽に向かっていた見知ら
ぬ老女がわたしを見ている。その顔には驚き半分、笑が半分。わたしがもし
気絶でもしたら助けてくれるにちがいない。
 一旦は湯の中に潜り込んだ私の頭は、幸いにして湯に救われて打撲するこ
ともなく、従って気絶することもなく、すぐに起き上がることができた。
なんとか起き上がって態勢を取り戻したわたしを先ほどの老女が見ていて
安堵の笑顔を送ってきたので、わたしも同じような笑顔で返した。
 なんてこと。いきなり滑ってしまうなんて。身体を右腕で庇ったらしく、
肘に痛みが走る。打ったようだ。まったく。気をつけなければ。肩まで湯
に浸かりながら周囲を観察した。
 ここは都会の真ん中にありながら天然温泉が湧き出ているという温泉だ。
たまにはゆっくりしたいと思って近場の温泉を探してみたら、思いがけな
いほど近くに発見し、喜び勇んでやって来たのだ。ただの風呂だと思って
いたが、露天風呂はあるわ、サウナはあるわ、お楽しみ満載の温泉だとわ
かった。普通の銭湯の三倍近い料金なのだから、元を取らねばと、すべて
のお風呂を堪能してやろうと施設内を廻ることにした。まっ茶色の変わり
湯、ミストサウナ、塩サウナ、遠赤外線サウナ、露天風呂、転び湯、元湯、
ナノ湯、だいたいこんなものかとさらに見渡すと、奥の方に盗み湯と書か
かれた扉を見つけた。
 盗み湯ってなに? 興味津々で扉を開くと薄暗い廊下が続いていて、その
先に次の扉が見えた。それを開くと、うちのマンションと同じようなユニ
ットバスルームに出た。なんだこれは? しかし長い廊下に身体が冷えたの
で、狭い湯船に身体を沈めてみた。あら、案外いい湯。あったまっている
と、半透明になった扉の外で人の気配。
「おとしゃん、早く入ろ」
「おうおう、まぁ慌てるな、風呂は逃げていかん」
 子供の声と野太い声。え、えっ。なに? 男の声? びっくりしてわたしは
いま来た扉を探すがわからない。隠れなければと思って湯に潜ると、なに
かの拍子にまた薄暗い廊下に飛び出た。壁をみると、迷い湯はこちらとい
う矢印。その矢印に従って歩いていくと、今度はどこかのホテルかなにか
の廊下に出た。ホテルと思ったのは、豪華な赤い絨毯が敷かれてあるから
だ。なにこれ? どこ? 迷い湯? わたしは迷ったの? 素っ裸で小さなタ
オルを頭に巻いただけのわたしはとんでもないところに放り出されたよ
うで、急に恥ずかしくなってきた。誰か来たらどうしよう。帰り道は?
 誰もいない廊下に帰りの扉を探し回ってようやく小さな扉を見つけた。
 あの湯。そう書いてある。あの湯? なに、あのって。あの世? まさか。
次第に身体が冷えてくる。廊下の向こうに人影が近づく。どうしよう。
あの湯? なんなの? ままよっ! わたしはその小さな扉の中に飛び込ん
だ。
                                                            了

読んだよ!オモロー(^o^)(3)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

読んだよ!オモロー(^o^) 3

感想 0

感想を書く

お名前:
URL:
感想:

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。